毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

世界は厳しいが、変えられる~『職業は武装解除』瀬谷ルミ子氏(2015)

 職業は武装解除 (朝日文庫)

 瀬田氏は武装解除のプロフェッショナル、「壊れた社会」を立て直す、それが私の仕事―。17歳のときに見た写真が、平凡な少女の運命を変えた。「武装解除」のプロとして、24歳で国連ボランティアに抜擢、30代で各界の注目を集めるに至る。(2015文庫化)

 

武装解除DDR(Disarmament Demobilization Reintegration)

武装解除とは、紛争が終わったあと、兵士たちから武器を回収して、これからは一般市民として生活していけるように職業訓練などをほどこし、社会復帰させる仕事だ。武装解除の対象となるのは、国の正式な軍隊のときもあれば、民兵組織のときもある。(位置7)

被害者が諦め、加害者が優遇される

平和とは、時に残酷なトレードオフのうえで成り立っている。安全を確保するためのやむを得ない手段として、「加害者」に恩恵が与えられる。・・・一方で、家族を失ったり、身体に障害が残ったり、家を失い避難民となっている「被害者」に、同じレベルの恩恵が行き渡ることはめったにない。加害者の人数と比べて、被害者の数が圧倒的に多いからだ。…被害者たちは、元兵士たちの不満が爆発した時、犠牲になるのは自分たちであり、我が子であることが分かっている。そして、「平和」という大義のために、加害者の裁きをあきらめ、理不尽さをのみ込み、自らの正義を主張することを身を切られる思いであきらめる。(位置630)

DDRとは妥協の産物

DDRは、紛争を終結させるためのぎりぎりの政治的な妥協案に過ぎない。(位置722)

どうしてDDRを始めたのか?

私がこだわった条件は、「ニーズがあるのにやり手がいない分野」だった。…現場で解決策のない問題こそ、新しい専門家が必要だと思った。そうは言っても、アイデアがある訳ではない。図書館で専門書を読みあさり、国際機関や海外のNGO、研究所のウェブサイトから情報収集する日々が続いた。・・・インスピレーションは、何の前触れもなくやってきた。三カ月ほど経ったある日、私はいつものように複数の外国のウェブサイトの新着記事を巡回していた。頭の中にいろんな知識や情報が日々たまっていき、ぐるぐるして飽和状態だ。そして、私は、ある一文を目にした。 「紛争地では、元兵士や子ども兵士をいかに社会に戻すかが問題となっている」・・・国際的にも解決策がわからないのなら、自分がそれを専門にすれば役に立てるはずだ。(位置321

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紛争地のアンテナ: 瀬谷ルミ子のブログ

瀬田氏がDDRを作った

 

瀬田氏がこれだ、と思いついたとき、DDR武装解除という仕事はなかった。瀬田氏はニーズがあっても専門家のいない所を選択し、自ら現地に赴いてDDRという仕事を形づくっていった。彼女の経歴それは誰かが運んできてくれたチャンスを、選択した結果である。彼女は「30年後の自分が今の自分を見ていたら。どちらを選ぶだろう」と、できる限りリアルに想像していた。」という。DDRという政治的妥協策を仕事とした瀬田氏は俯瞰して世界を眺めている。

蛇足

 世界は常に厳しいが、変えられる

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