毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

人はどんな環境でも、悦びを見出せるもの~『君の歳にあの偉人は何を語ったか 』真山知幸氏(2012)

君の歳にあの偉人は何を語ったか (星海社新書)

 真山氏は人物研究家、偉人はどうしてその言葉を言ったのか?

 偉人の一人として正岡 子規(1867-1902年)が紹介されている。

 

正岡子規ホトトギス

いよいよこれから自分の人生が動き出す。そんな矢先に、22歳の子規は喀血する。医者に診てもらったところ、肺病と診断された。…その夜、血を吐きながら、子規は50句もの俳句を詠んだ。、次の二つも、そのなかのものだ。

卯の花をめがけてきたか時鳥

卯の花の散るまで鳴くか子規

喀血したときがちょうど卯月(4月)。自分を「卯の花」になぞらえたこの両句。「時鳥」も「子規」も鳥のホトトギスのことを指している。鳴くときに喉が赤くなることから、当時ホトトギス結核の代名詞であった。つまり、最初の句は、突然自分にめがけてやってきた結核につちえ詠まれた句なのである。この肺結核で、子規は自分の命を残り10年だと判断していた。正岡子規が「子規」と名乗るようになったのは、このときからだ。(101ページ)

29歳で脊椎カリエスを発病

脊椎カリエスの悪化した正岡子規は)人生を少しでも楽しもうとする姿勢を子規は失わなかった。寝たきりの生活のなか、俳句の分類に打ち込み、また34歳からは新聞で随筆の連載「墨汁一滴」を開始。翌年には「病状六尺」と名前を改めて、死の2日前まで執筆し続けた。(104ページ)

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正岡子規直筆の病床からの景色(仰臥漫録の口絵より)

病状六尺より引用

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪むさぼる果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、…たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。(1~5月5日)

余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。(21~6月1日)

 (仰臥漫録の前に、病状六尺をお勧めします)

 

悟りとは常に悦びを見出せること

正岡子規の俳号はホトトギスの別名に由来する。俳号のみならず雑誌のホトトギスもまた結核に由来していた。6年間の闘病で日々病状は進行していく。この過程で「病状六尺」と「仰臥漫録」を執筆する。そこで闘病生活の苦しみが率直に語られる。日常の中で執筆すること、絵筆をとることに悦びを見出していた。「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」

 蛇足

 

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 (正岡子規

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