毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

日本という仕組みに、誰がいつ”コメ”を選択したのか?~『コメを選んだ日本の歴史』原田 信男氏(2006)

コメを選んだ日本の歴史 (文春新書)

原田氏は日本の料理史の研究家、イモ、雑穀、獣肉…。さまざまな食物のなかで、どうしてコメだけが聖なる地位を獲得できたのか?(2006)

 

なぜコメなのか?

まず何よりコメは、栄養価が高く食味に富む食物で、繁殖力に優れ高い社会的剰余を生むことから、巨大な集団を率いる指導者たちに好まれた。しかも、その栽培条件の整備には、集団的な労働力を必要とした。それゆえコメ栽培の技術を獲得した集団は、それ以外の生業に従事する集団に対して、経済的・軍事的優位を誇るようになった。(241ページ)

水田耕作は特殊な文化

コメを選んだのは、日本人全体というよりも、この列島の中央部で、コメという社会的剰余を基盤とした国家の形成に、主体的に関与しようとした一部の人々であった。やがて、それ以外の人々も、徐々に国家つまりはマジョリティの価値観に染まり、コメの味覚と魔力に駆致されていったのである。むしろアジア全体からみれば、ブタやニワトリなどの肉を伴わずに、雑穀を軽視し、水田耕作に特化した日本の食文化は、かなり特殊なコメ文化といわざるをえない。(244ページ)

コメと肉

日本人はどこかで、肉食にマイナスのイメージを与えるという習慣をもったことになる。…天武天皇4(675)年4月の“肉食禁止令”は、長く仏教の殺生戒との関連から、肉食を恒久的に禁止したものと考えられてきた。…天武の“肉食禁止令”は肉そのものを禁じたのではなく、その目的は、水田耕作の円滑な推進にあり、厳密には一時的な殺生金利令と見なすべき政策であった。(111ページ)

コメを選んだ日本の歴史

 日本では、1200年以上に渡って、コメを選ぶと同時に、肉食に対し負のイメージを植え付けてきた。原田氏は米作と肉食は共生できる習慣であり、アジア全体でみればそれが普通であったと指摘する。

肉食などコメ以外の食事への分散は戦後一気に進んだ。戦前まで一人一石(150㎏)を消費していたという。1990年代からは一人当たり60㎏/年まで減少した。1817年(明治4年)に、明治天皇が牛肉を食べて肉食を解禁した。これは西洋化と捉えるのではなく、1200年かけて構築されてきたタブーから解放された、と理解した。

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農林水産技術会議/新たな用途をめざした稲の研究開発(平成18年度版)、2ページ目

日日本農業では米作は未だ特別な地位にあると主張する人々がいる。そこでは日本の伝統、古の食文化への回帰が主張されている。逆に言えば既に政治的・経済的に米作を主張する根拠がない、とも言える。

米作は、1200年に渡って国家によって独占されていた、社会的正当性を担保するもの、信用創造の中心にあるもの、だった。本書によれば国家が米作の管理を止めたのは、わずか平成5年(1,993年)のことである。

蛇足

 コメを選んだのは国家の仕組み

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