毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

我々は、受験勉強によってゼロ・サム競争を刷り込まれている~『立身出世主義―近代日本のロマンと欲望』竹内洋氏(2005)

立身出世主義―近代日本のロマンと欲望

竹内氏は教育社会学の研究家、立身出世主義は近代日本人の大きな物語だった。(2005)

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立身出世主義

明治日本の幕開けによって、職業選択の自由や居住の自由が宣言され、社会的流動性の桎梏となっていた制度が解除された。…「学問のすゝめ」(福沢諭吉)や「西国立志編」(サミュエル・スマイルズ著、中村正直訳)は明治初期の大ベストセラーであるが、立身出世の焚き付け読本でもあった。もっとも、「学問のすゝめ」に頻出する立身、富貴、賢愚、貧賤などの用語はいずれも江戸時代によく読まれた「実語教」をはじめとする教訓本によくつかわれている言葉である。その意味では「学問のすゝめ」も「西国立志編」も新しい革袋に古い酒(江戸時代に潜在した野心)だった。

ダーウィズム的世界観

(立身出世主義の基盤となったのは)、フォーク・セオリー(フォーク=ふうつの人々の、セオリー=世界観)としての社会ダーウィニズムである。社会ダーウィニズムは、ダーウィン(1809-82)の生物の進化法則を人間社会に適用した社会理論である。社会ダーウィニズムは19世紀の帝国主義の時代とマッチングし世界的に普及した。日本でも明治10年代に紹介され、30年代には大きな思想潮流になる。しかし、ここでいうのはそうした学説としての社会ダーウィニズムではない。学説とは別に人々が日常的にいだく社会観として日本人のなかに相当以前から、社会ダーウィニズム的考え(零落の危機=「長者ニ三代ナシ」)が存在した。フォーク・セオリーとしての社会ダーウィニズムという所以である。(16エージ)

立身出世から受験立身

人生は試験であり、戦闘である、試験と戦う力がない者は一日も世に生存できない、と試験や勉強を生存競争と関連させて説いている(明治10年代の)少年の作文は多い。試験こそは典型的ゼロ・サム競争であるからだ。ゼロ・サム競争とは誰かが成功するたびに別の誰かの失敗をまねく競争、つまりパイが一定の競争である。(20ページ)

社会ダーウィニズムは、日本人の背後感情である零落の危険という希少性の神話を言表化するにふさわしいレトリックであり、しかも受験競争化された立身出世によってますます信憑性をましていった。(21ページ)

受験勉強と現在

 

我々の共通認識として、立身出世は受験勉強とオーバーラップしていると考えた方がよいと気づく。つまり立身出世も受験勉強もゼロ・サム競争がベースと思い込んでいるのだ。我々は常に「知らず知らずのうちに勝者と敗者を分別し、敗者になることを極度に恐れる」という行動パターンしかとらないのである。

中国古代の詩人の多くが、立身出世に敗れ地方で暇職につく身の不幸を詠ってきた。受験勉強、役人の世界は完全なるゼロ・サム競争である。しかしよく考えてみれば、世界はゼロ・サム競争ではない部分の方がはるかに大きい。

実態として世界では、一人が豊かになることは、多くの人が同時にその恩恵を受けることであり、ゼロ・サム競争とはまったく違う原理で動いているのである。世界は思っている以上に豊かであり自由である。心を重たくすることの正体に気付いたとき、心が軽くなる。

蛇足

 

社会には、100%のゼロ・サム競争は存在しない

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