「田舎の3年、京の3日」ということわざを知っていますか?~『アメリカ素描』司馬遼太郎(1986)
司馬遼太郎著、普遍性があって便利で快適なものを生み出すのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生みつづける地域はないのではないか。(1986年)
文明と文化
文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的ではない。たとえば青信号で人や車は進み、赤で停止する。このとりきめは世界に及ぼしうるし、げんに及んでいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本で言うと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。(17ページ)
文明材
“文明材”というのはこの場かぎりの私製語で、強いて定義めかしくいえば、国籍人種をとわず、たれでもこれを身につければ、かすかに“イカシテイル”という快感をもちうる材のことである。普遍性(かりに文明)というものは一つに便利という要素があり、一つにはイカさなければならない。・・・普遍性があってイカすものを生み出すのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生み続ける地域はなさそうである。
司馬と友人との会話
「もしこの地球上にアメリカという人工国家がなければ、私たち他の一角のすむ者も息ぐるしいのではないでしょうか」・・・今もむかしも、地球上のほとんどの国のひとびとは、文化で自家中毒するものに重い気圧のなかで生きている。そういう状況のなかで、大きく風穴をあけたのが、15世紀末の“新大陸発見”だった。アメリカ大陸が“発見”されると、ヨーロッパから、ほうぼうの国の人びとがきて、合衆国をつくった。独立宣言からいえばわずか二世紀前のことである。いまはアメリカで市民権をとることが容易でないにせよ、そのように、文明のみであなたOKですという気楽な大空間がこの世にあると感じるだけで、決してそこへ移住はせぬにせよ、いつでもそこへゆけるという安心感が人類の心のどこかにあるのではないか。(20ページ)
アメリカ素描
本書は司馬遼太郎が40日に渡ってアメリカを旅行した記録である。
「たしかにアメリカの歴史は浅い。しかし、もし近代国家としてアメリカを考えるならば、それはイギリスについてふるい国であり、世界でもっともふるい国であるといえよう。」・・・(アメリカは)フランス共和国よりも十余年もふるいのである。(299ページ)と書く。
わずか40日の素描は、今東西様々な文脈から構成されている。司馬自身が「アメリカへなお何十年も行っていたような錯覚がかすかに自分のなかにある。」と記す。
司馬の言う文明材と考えて思い出すのがIphone。普遍性があってイカスものという資格に当てはまる。今から30年前の本書は今も価値を持ち続ける。
蛇足
田舎の3年、京の3日(室町時代のことわざ、刺激が違う、という意味)
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