毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

日本で最初の高速道路はいつできたか?~『道路の日本史古代駅路から高速道路へ』武部 健一氏(2015)

道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書)

武部氏は建設省・道路公団で高速道路建設に従事、邪馬台国にはけもの道しかなかったが、奈良時代には幅12メートルの直道が建設された。現代の高速道路まで、エピソードで綴る通史 。(2015)

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東名高速と遺跡

 

 

昭和37年(1962)、私は東名高速道路の建設のため、静岡市にいた。そこで高速道路の計画路線が駿河国分寺の遺跡にかかっているのではないか、という問題が持ち上がった。・・・もしそれが事実なら計画ルートを変更しなければならない。・・・全国各地の高速道路の計画路線は、古代の古墳や古代遺跡とぶつかって難渋していた。(はじめにⅰ)

 

古代の道路は情報の伝達通路でもあった

 

 

道路の役割は交通路を提供することである。交通のなかには、人自身の移動と物の輸送と、それに情報の連絡とがあった。現在は情報連絡における道路の役割はほとんどないが、昔の道路では大きな役割を占めていた。昔は情報も人が自ら移動して伝えるものであり、敏速な交通手段が必要だった。それらの機能を備えた道を駅路といった。(34ページ)

 

律令国家の作った駅制

 

 

律令国家の全国支配には、迅速な交通・通信の制度が不可欠であった。駅制あるいは駅伝制と呼ばれるのは、古代律令国家における交通・通信制度である。道路の一定距離ごとに駅家を設置して駅馬を常備し、通信連絡の駅使や一部の重要な官吏の旅行などに便宜を図るものである。中央の命令は各国の長官である国司を通じて人民に伝えられ、地方の状況は国司から朝廷に絶えず報告された。(40ページ)

 

律令国家とは

 

660年代に入って唐・新羅との対立関係が決定的に悪化し、倭朝廷は深刻な国際的危機に直面した。天智天皇は豪族を再編成するとともに、官僚制を急速で整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。天智天皇による国制改革は全国に及んでおり、令制国律令国)と呼ばれる地方行政区画が形成されたのもこの時期である。(Wikiより)

日本の幹線道路

 

日本の全国的な幹線道路には、①古代道路、②江戸期街道および近現代国道、③高速道路の四段階がある。同じような場所を通る路線で、江戸期街道だけが別ルートで、古代路と現代の高速道路が同じ場所を通ることがしばしばある。・・・江戸期の街道というものは、地域の道路を結び合せたものといってよい。細かい集落をつなぎ合せて結んでゆく。明治期以降の国道も、ほぼこれを踏襲している。(61ページ、一部改変)

古代路のキーワードは計画性と直達性

 

古代路も高速道路も、遠くの目的地に狙いを定めて、計画的に結んでゆく。これを計画性と直達性という。だから、各所で高速道路が古代道路と同じ場所を通るのである。(62ページ)

 

道路は政治

「すべての道はローマに通ず」と言われる様に、強大な権力と広大な領域は道路を必要とした。

7世紀に唐・新羅との対立を抱えていた倭は律令国家と同時に道を作っていた。古代道路の幅は12mあったという。「駅路は人民に国家の偉大さを見せつける装置」でもあったという。古代道路の総延長距離は6300㎞にもおよび、今から50年前の1966年当時の本州の高速道路計画6500㎞と同等だった。

日本で最初の高速道路は1963年の名神高速、実は1300年前に当時12メートル幅の高速道路があった。日本の地理的骨格は1500年経っても変わっていない。

蛇足

 

政治家が道路を作りたい理由はここにある。

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