毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

「大きな物語」は日本に存在した事はあったか?~『ポストモダンの条件~知・社会・言語ゲーム』リオタール(1979年)

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

フランスの哲学者リオタールの代表作、西洋という「大きな物語」とそれに支えられた科学の時代の終焉。(1979年刊)

 

 
大きな物語

 

 今日の文化・社会-すなわちポストインダストリーの社会、ポストモダンの社会-においては、知の正当化についての問いは全く別の言葉によって表せなければならない。大きな物語は、そこに与えられた統一の様態がどのようなものであれ、つまり思弁的物語であれ、開放の物語であれ、その信憑性をすっかり喪失してしまっているのである。(97ページ)

 

テクノロジーと資本主義

物語のこのような衰退のうち、第二次世界大戦後の技術・テクノロジーの飛躍的発展の影響を見ることもできる。テクノロジーの発展は、行動の目的から行動の手段へとアクセントを移動させてしまったのだ。そしてまた、1930年から1960年にかけて、ケインズ主義の庇護のもとに、危機から立ち直った自由主義的資本主義の再発展の影響も見ることができる。

「小さな物語」

 

決定不能なもの、制御の正確さの限界、量子、不完全情報の争い、フラクタル、カタストロフィー、言語行為のパラドックスといったものに興味を示しつつ、ポストモダンの科学は自らの発展を、不連続な、カタストロフィー的な、修正不能な、逆説的なものとして理論化する。(146ページ)

 

知の変質

 

リオタールが言うように、それがドイツ観念論において完成される〈精神の生〉のタイプの物語であれ、またフランス革命の〈啓蒙〉の思想を直接に受け継ぐ〈開放〉のタイプの物語であれ-,大きな物語による正当化を失い、資本のシステムを支える〈技術としての知〉となり、〈効率〉の判断基準に決定的に従属することになるのである。(224ページ訳者あとがき)

 

1979年という時代性

 

著者は西洋の科学の前提となっていた大きな物語が消滅し、科学は資本主義の道具に過ぎないと言う。

本書は1997年の刊行、この年には、米中国交正常化、ソ連アフガニスタン侵攻、イギリスでサッチャー首相就任、と資本主義が共産主義との競争において優位性が明確になった時期であった。それは西洋の知識人が資本主義の行き詰まりからマルクス主義に活路を見出そうとして、それが終焉した「西洋の大きな物語の終了の物語」と言える。

この点に関して少なくとも私が閉塞感を感じないのは時代の変遷か、あるいは東洋的な発想故であろう。つまり我々も「大きな物語」に囚われているが、それがすべてではないとうすうす気づいている。

資本主義の影響力が再度高まりつつある今日、ポストモダンの条件は「資本主義という大きな物語も一つの物語」でると解釈できると考えた。最後に本書はソーカルの「知の欺瞞」によって批判を受けた事を付記する。

蛇足

「大きな物語の喪失という物語」は諸行無常の響きあり

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