毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

どうして武士は鉄砲ではなく刀を持参していたのか?~『鉄砲を捨てた日本人~日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン(1979)

 鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮 (中公文庫)

ペリン氏は米国の文学研究家。

16世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量生産にもまさる鉄砲使用国となった。にも拘らず江戸時代を通じて日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻った。武器の歴史において起るべからざることが起ったのである。同時代の西欧では鉄砲の使用・拡大によって戦争に明け暮れていたことを考えると、この日本の〈奇跡〉が示唆するところは大きい。(原書は1979年、文庫化は1991年)

 

 

 

鉄砲伝来

 

鉄砲は1543年に、日本に漂着した最初のヨーロッパ人がもたらした。それはたちどころに採用され、それから100年間、広く使用されたのである。ところがそれを過ぎると、徐々にではあるが、放棄されていった。(20ページ)

 

 

日本人は刀から鉄砲へいったん進み、そのあと鉄砲から刀へと後戻りした。16世紀後半に日本人が合戦に用いた鉄砲数は、当時のヨーロッパのどの国がもっていた鉄砲の数よりも多かったのである、(29ページ)

 

鉄砲の全盛時代

 

 

長篠の合戦(1575)で信長が勝利を収めたのち半世紀は、火器の使用が日本で最高潮に達した時代である。火器の使い方を知らねば、兵隊にはなれなかった。しかし同時に、火器に対する最初の抵抗も強まった。・・・鉄砲を持つ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。(63ページ)

 

1607年徳川幕府は鉄砲鍛冶を統制

 

 

国友の鉄砲鍛冶年寄の4名が家康に召出され、家康は彼らに帯刀を許してーすなわち侍身分にとりたててー、それと同時に鉄砲鍛冶の管理にかかわる法度を申出だのである。・・・要するに1607年から鉄砲は幕府の許可のもとにのみ製造可能となったのである。(108ページ)

 

 

鉄砲鍛冶の多くは鍛冶場で働くことを望んだ。そこで、鉄砲の注文が少なくなると、かなりの者が刀鍛冶場になった。・・・刀工に転向しないか、する意志のない鉄砲鍛冶のために、幕府は1610年前後から注文を開始した。・・・1672年以降、幕府への年間上納分が大筒55梃とされ、1683年以後は上記分と小筒334梃とを隔年に上納することが定められた。・・・この期間を通じ武士人口が50万人を優に上回っていたことを考えると、国友の鉄砲はもやや戦闘の重要な要素ではなくなったともいる(換言すれば1637年(島原・天草一揆)以降は事実上戦争がなかったので、鉄砲はもはや戦闘訓練の重要部分ではなくなっていたのである。)(114ページ)

 

なぜ鉄砲を放棄したのか?

 

 

刀剣には倫理性が不可分に結びついているのに対し、鉄砲は単なる人殺しの武器として倫理から解放されていた事を挙げる。「鉄砲の放棄」は、同時に失われた倫理の再確認でもあった。(訳者あとがき181ページより)

 

鉄砲を放棄し弓刀に戻ったのは徳川時代が長きに渡り戦闘が無かった事が本質である。そして人口の8%程度を占めていた武士は軍事訓練を弓刀で行っていた。そこには身体と精神性の鍛練が求められた。時代劇でみる武士の多くは鉄砲を持たずに刀帯している謎(!)が分かった。

蛇足

 1867年明治維新から約150年しか経過していない。徳川250年は長かった。

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