マウスがどうやって作られ、机の上に乗ったか考えてみる、「カタクラシー」とういう言葉を知っていますか?~『繁栄』 マット・リドレー
繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
著者リドレーは、ヒトが大成功を収めた要因は「分業」と「交換」 であるとし、アイディアの交換=共有によってさらなる繁栄が到来すると告げる。比類なき“合理的楽観主義者"宣言の書。(2103年文庫)
ハンドアックスとマウス
どちらも人造だが、前者は一人の人間が作ったのに対して、後者は何百、ことによると何百万もの人間が製作に関わっている。これこそが私が「集団的知性」と呼ぶものだ。コンピュータのマウスの作り方をすべて把握している人はいない。工場で組み立てた人は、プラスチックの原料となった石油の掘削の仕方を知らないし、それを知っている人は組み立て方を知らない、ある時点で人類の知性は、ほかのどんな動物にも起きなかったかたちで集団的・累積的になったのだ。(22ページ)
究極の市場の失敗
新古典派経済学は完全な情報を有する無数の市場参加者が、スミスの見えざる手によって利潤も収益もない均衡状態に導かれるとし、いずれ経済成長に終焉が訪れると予想した。これはまったくの虚構だった。・・・・それが誤っているのは、完全な競争、完全な知識、完全な合理性を前提としているからだ。そのどれも実際には存在しない。(384ページ)
常に新たな情報が生まれる
新たな知識が生まれる可能性があるなら、定常状態というのは成立しない。・・・知識は社会に分散されており、それは各人にそれぞれの視点というものがあるからなのだ。知識はけっして一つの場所に集中させることはできない。それは集団的であり個別には存在できないからだ。(384ページ)
知識は無尽蔵
知識のすばらしい一面は、それがまぎれもなく無尽蔵であることだ。アイデアや発見、発明が枯渇することなど理論的にもあり得ない。・・・情報には物質よりはるかに膨大だという際立った特徴がある、まだこれから生まれる可能性のあるアイデアの世界に無数に組み合わせがあることを考えるなら、物質の世界など卑小なものだ。(424ページ)
繁栄はカタクラシー
私は21世紀はカタラクシー-交換と専門化によって自発的に起きる秩序を指すハイエクの造語-が拡大し続けると予測する。知性はより集団的となり、イノベーションと秩序はよりボトムアップになり、仕事はより専門化し、余暇が多様化する。(538ページ)
悲観論を分析してみると、、、
世界には悲観論を煽る本があふれている。経済的な側面から言えば、完全市場下において利潤の発生がゼロとなる均衡状態を目指して進んでおり、世界はその均衡点に近づいているという考え方である。これはある意味「究極の死」である。著者はこれを否定し、楽観論を主張する。世界が変化しないのであれば完全市場における均衡は有るとしても、世界は今も変化している。常に新しい情報が生み出されているのである。我々は完全性の否定された世界に住んでいる。悲観論に陥っているヒマは無い。
蛇足
完全になり切れない結婚を「結婚の失敗」と呼ぶ理不尽さ
(そもそもそんなものは存在しない)
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とはいえ完全になり切れない市場を「市場の失敗」と呼ぶのは、完全になり切れない結婚を「結婚の失敗」と呼ぶぐらい理不尽だ。