夏目漱石のロンドン留学、それは日清戦争と日露戦争の間~三四郎(1908)という時代
動乱の昭和の原点は、明治の中でも日露戦争以後十年の時代に求められる。その歴史の転換点を小説家として生きたのが夏目漱石であった。
夏目漱石「三四郎」 滅びるね
「(三四郎は)『然しこれからは日本もだんだん発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男(広田先生)は、すましたもので、『滅びるね』と言った。」(1章)
明治から大正への日本に進歩の方向を憂えつつ、人間性の根本をみつめる相k性は、こうして孤独な存在とならざるをえなくなった。(93ページ)
名取春仙:画、夏目漱石「三四郎」の装画・挿画…4 - 装丁家・大貫伸樹の装丁挿絵探検隊
1908年(明治42年)に発表された長編小説。明治末期の青年の成長を描いた作品である。当時は、主人公のように地方の人間が立身出世を目指し多数上京していた。漱石はは一青年の目を通して日露戦争後の日本社会を批評している。三四郎は郷里、学問、恋愛の三つの世界を見出し、無限の可能性のある青年像を描き出している。(wiki)
1902年(明治35年)漱石が義父に出した書簡
「同時に国運の進歩はこの財源を如何に使用するかに帰着いたし候。ただ己のみを考うるあまたの人間に万金を与え候とも、ただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞あるのみと存じ候。欧州今日文明の失敗は明らかに貧富の懸隔はなはだしきに基因いたし候」として、イギリス社会に起こっている矛盾欠陥は、富の配分の不公平、利己主義によるもので、それはとりも直さず近代文明の失敗であると認識し、・・・漱石はマルクスの名前まで持ち出している。(240ページ)
当時の世相
漱石のロンドン留学時代の明治33年のそれ(軍事費)は実に45.5%、34年は38.4%が軍事費なのである。このためのはかりしれない増税への国民の不満。しかし、それも臥薪嘗胆のスローガンにかき消され、街には殺伐とした尚武の、そして西欧に追いつけ追い越せの威勢のいい掛け声がみちあふれていた。(86ページ)
三四郎と戦争の年譜
1894~1895 日清戦争
1900~1902 漱石 ロンドン留学
1904~1905 日露戦争
1908 「三四郎」執筆
ふたたび『滅びるね』
三四郎の中に出てくる大学の先生のフレーズ「滅びるね」は有名である。私はこれは知識人が斜に構えたポーズだと理解していた。年譜から、漱石は日本の近代化政策に組み込まれていた、という事がわかる。日清戦争に勝利した日本はその賠償金で軍備拡張と同時に西欧学問の吸収を目指した。これらを背景に漱石はロンドンに留学し、イギリスの資本主義を自ら認識する。その後日本の様々な投資が効果を発揮、日露戦争に勝つ事になる。資本主義となった近代日本の誕生である。こんな時代背景の下、立身出世の夢を持った青年、三四郎を描く。「滅びるね」という言葉はリアリティに富んだ一言だったのである。
蛇足
我々と三四郎は同じ社会に活きている。