毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

他人との差異を示す「記号」としての商品、そして消費社会~45年前のボードリヤールの古典から学ぶ

消費社会の神話と構造 普及版

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原書は1970年の出版、消費社会についての古典。

家庭電化製品や衣料、車といった各種の商品は、その使用価値だけで用いられるのではなく、社会的権威や幸福感といった他人との差異を示す「記号」として現われる。ここに消費社会の秘密を解く鍵があるという。(本書扉より)

 

ボードリヤールは商品のもつ記号を「モノ」と総称する。

商品の記号としての「モノの価値」とは何か?

消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットと関わることになる。洗濯機、冷蔵庫、食器洗い機などは、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている。ショーウィンドウ、広告、企業、そしてとりわけここで主役を演じる商標は、鎖のように切り離し難い全体としてのモノの一貫した集合的な姿を押しつけてくる。それらはもはや単なるひとつながりのモノではなくて、消費者をもっと多様な一連の動機へと誘う、より複雑な超モノとして互いに互いを意味づけあっているが、この限りにおいてはモノはひとつながりの意味するものなのである。

言い換えると

大量消費時代における「モノの価値」とは、商品に付与された記号にあるとされる。例えばブランド品が高価であるのは、その商品そのものの持つ特別なコードによるのであり、商品としての価値は、他の商品の持つコードとの差異によって生まれるとされる。現代の高度消費社会とは、そういった商品のもつコードの構造的な差異の体系である。(Wikiを参考に・・・)

モノと欲求の世界は普遍化されたヒステリー

(心身におけるヒステリーが)身体のあらゆる機能が変動しながら症候によって示される巨大なパラダイムとなるように、消費においてもモノは、そこでもう一つの言語が方ら手、他の何かが語る巨大なパラダイムとなる。・・・すなわち欲望の疾走、欲求の際限のない更新という事実を前にして絶えず素朴に狼狽ばかりしている立場があるが、これに反して、欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求ではなくて、差異への欲求(社会的な意味への欲望)であることを認めるなら。完全な満足などというものは存在しないし、したがって欲求の定義もけっして存在しないことが理解できるだろう、。(95ページ)

モノは差異を表現したいという欲望

消費社会とは、資本主義が発達し、全ての国民が企業が供給する商品を享受できる社会を指す。企業が提供するものは記号であり、企業が競合するのは社会的差異を表現できる別の商品、例えば乗用車と私立中学という教育サービス、が競合することがあるという事になる。モノには完全な満足も定義も存在しない、ボードリヤールは「われわれはモノが無であることを知っている」(310ページ)と締めくくる。

蛇足

モノの記号が無であるなら操作する方法が存在する。