毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

近代文学としての小説の役割~柄谷行人氏のアプローチから

近代文学の終り―柄谷行人の現在

本書の第一部、近代文学の終わりより、

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近代文学はネーションの基盤

感性的な娯楽のための読み物であった「小説」が、哲学や宗教とは異なるが、より認識的 であり真に道徳的であるような可能性が見出されるということでもあります。小説は、「共感」の共同体、つまり想像の共同体としてのネーションの基盤になります。小説が、知識人と大衆、あるいは、様々な社会的階層を「共感」によって同一的たらしめ、ネーションを形成するのです。(43ページ)

ネーションステートは世界を覆った

今日ではもうネーション=ステートが確立しています。つまり、世界各地でネーションとしての同一性はすっかり根をおろしています。その為にはかつて文学が不可欠であったのですが、もうそのような同一性を想像的に作り出す必要はない。(49ページ)

近代文学の終わりとは近代小説の終わり

近代国家では、どこでも、それぞれ漢文やラテン語などの普遍的な知的言語を俗語に翻訳しながら、新しい言語を作り上げた。日本の場合は、明治時代に、あらためて俗語(口語)にもとづく書き言葉を作らねばならなかった。「言文一致」と呼ばれるものですが、それはやはり小説によって実現されたのです。・・・言文一致とは感性的・感情的・具体的なものと、知的で抽象的な概念とをつなぐことなのです。・・・近代小説はいわば音声や挿絵なしに独立したわけですが、それは書き手にも読者にも大きな想像力を要求するものでした。・・・近代小説の特質は何といっても、リアリズムにあるのです。つまり、物語(虚構)であるのに、それがリアルであるかのように見えさせるにはどうすればよいか、それが近代小説の取り組んだ問題です。・・・しかし、視聴覚的なメディアがでてくると、そのような必要はなくなります。・・・日本の場合、マンガが広がったことは、徳川時代の小説への回帰であると言えます。江戸の小説は、絵入りで、ほとんど会話だけで成り立っている。(52-56ページより再構成)

これから文学に何を求めるか

文学がナショナリズムの基盤となることはもう難しいだろう、ということです。・・・「文学」が倫理的・知的な課題を背負うが故に影響力をもつというような時代は基本的に終わっています。・・・近代小説が終わったら、日本の歴史的文脈でいえば、「読本」や「人情本」になるのが当然です。(60ページ)

小説の役割は何か考えてみる

源氏物語の時代から、小説はストーリーを提供するもの、ここにまた戻ったという事であろう。また登場人物を第三者の視点で観察する事による「他人の理解」を容易にする。一方で小説がネーション的というより、民族的アイデンティティを表象し続ける事もまた確かである。日本においてネーションと民族的は同義語になり、分かり憎くはあるが、、、。

蛇足

最後に読んだ小説を思い出してみる。