毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

最後に「おままごと」をやったのはいつ、誰とだったか?~「ホモ・ルーデンス」という視点

<ホモ・ルーデンス (中公文庫)

 ホイジンガ(1872-1945)はオランダの歴史家。サンスクリット 文献研究から歴史研究に転じた。「遊びを文化人類学歴史学を総合する雄大な構想で論証」(裏表紙より)1938年刊行。

 

ホモ・ルーデンスとは遊ぶ人

ホイジンガは人間がホモ・サピエンス(賢い人)と言うほど理性的な存在であるかという批判的な視線を持って、「『ホモ・ルーデンス』すなわち遊ぶ人という言葉も、ある意味本質的機能を示している」と書く。

 

私の心の中では、人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたのだ、という確信が次第に強まる一方であった。(12ページ)

 

遊びは自由な行動である、そして・・

遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れられた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは「別のもの」という意識に裏付けられている。(73ページ)

びは何ものかを求めての闘争であるか、あるいは何かを表す表現であるかのどちらかである。(42ページ)

表現する手段としての遊び

何かを表現するということは、ただ自然から与えられ、天賦として身に備わっているものを、観衆の前で繰りひろげてみることだけでも成り立つ。

子供の場合には、他人の前でして見せる演技はすでに象徴化されて、形象、イメージに待たされているものになっていることは確かである。

子供が何かを表現するということは、本物でないものを本物と考えて、見せかけの現実化をすることである。

子供の「ごっご遊び」を、「何かを表現する遊び」と捉えてみる

父親は、四歳になる息子が一列に並べた椅子の一番前に座って「汽車ごっご」をして遊んでいる所に行き合わせた。抱いて愛撫してやると、その子は言った、「パパ、キカンシャにキスしないでよ。そうでないと客車たち(並べた椅子たち)がホントだと思わないんだもの」。

闘争としての遊びの本質は規則の存在

規則の制約に縛られている闘争は、整然と秩序づけられているというそのことによって、もはや遊びの本質的特徴を帯びた事になる。しかも、かえってそういう闘争の場合の遊びの形式はとりわけ烈しく精力的であり、しかも同時にまことに明快で、分かりやすいのだ。

戦争についていえば、戦争に加わった一人一人がたがいに相手を平等の権利を有する存在として認めあうかぎり、また戦闘が規定の場の範囲内で行われるかぎり、それを一つの文化機能として語ることが可能である。

 

 

 

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昭和30年代/ままごとの風景: 曇りのち晴れ、時々雨。ままごと自体はいわゆる水遊びのようですが、ゴザが敷いてあったり、右はじに急須があったり

遊びたいから遊ぶ

遊びの本質は子供が「おままごと」で遊んでいる様子を想像すればいい。子供は遊びたい人と「おままごと」をする事だけを目的に、決まったルール・時間・空間の中で行う。お友達と仲良くなりたい目的で遊ぶのでもなく、子供が日常とは違う役割、例えば、お母さん、を真剣に演じる。そして参加者には「真剣さという規則」を要求しする。「おままごと」は「家」の中で完結し、夕方になればお終いになる。「遊び」とは「遊びたい」から遊ぶものという事。

 

私が最後に「ごっご遊び」をしたのは何年前であろうか?ゴルフをする事は遊びであろうか?そこには社交目的とか利益が潜在していないか?逆にゴルフをやる事はプロゴルファーの「ごっこ遊び」と捉えられるであろうか?

蛇足

ホイジンガの定義に当てはまる遊びを何かやっているか考えてみる?