毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

資本主義におけるバブルの発生と数学における完全性の否定~感情とも言い、予測計算不能とも言う

 

アニマルスピリットシラー教授は2013年に、アカロフ教授は2001年にノーベル経済学賞を受賞。「ケインズの知恵と行動経済学の成果を組み合わせて資本主義をもっと理解する」

f:id:kocho-3:20140604074641p:plainEconomics | Cotton Australia

アニマルスピリットとは

もともとケインズが「一般理論」の中で使った用語で、邦訳では「血気」という訳語が当てられている。ケインズは人が行動するときの度胸一発という意味でこれを使っているし、ケインズは人が行動するときの度胸一発という意味でこれを使っている。アニマルスピリットは荒々しく行動的なアニマルだけでなく、行動しない臆病な弱々しいアニマルを含む、合理的でないものすべてを指す。(訳者あとがき270ページ)

アニマルスピリットは制御されるべき

アニマルスピリットがどんなふうに経済を動かすかというケインズの主張は、政府の役割の話につながる。経済における政府の役割についてのケインズの見方は、育児書で見かけるアドバイスとかなり似たものだ。

両親(政府の例え)の適切な役割は、子供(経済活動の例え)がそのアニマルスピリットを暴走させないよう制限を付けることだ、でもその制限は、学習して創造的になる自由を子供に与える程度にすべきだ。親の役割は幸せな家庭を築くことであり、それが子供に自由を与えつつ、子供自身のアニマルスピリットから子供自身を守ってくれる。この幸せな家庭というのがまさに政府の適切な役割をめぐる立場だ。

資本主義経済は、古い経済学が正しく見てとったように、すさまじい創造性を発揮できる。政府はなるべくその創造性を邪魔してはならない。

一方で、現在の状況が示すように、なすがままにしておくて、資本主義は過剰に走り過ぎる。そして狂乱状態となる、狂乱にはパニックが続く。(中略)政府の役割は、育児書に書かれた親の適切な役割と同じく、舞台を整えることだ。その舞台は、資本主義の創造性を大いに発揮させるものであるべきだ。でも、アニマルスピリットのせいで生じる過剰(行き過ぎ)には対抗すべきだ。(序文ⅶより再構成)

Kochoの考えた事、政府の役割は二つ、元気づける事と投機を制限する事

アニマルスピリットは感情によって動かされる行動で、強気の時はより強気になり、弱気の時はより弱気になるもの、と言えよう。上記の例え続けると、①両親の役割はやり過ぎて思いっきり弱気になって引きこもっている子供に「臨時のおこづかい」(財政出動)を上げて元気づける事だと言える。そして②子供はバブルで「やり過ぎてしまった」訳なので、本来両親は子供が夢中になっている投機を制限すべき(金融引締めなど)であった。

ケインズを不況下、あるいは非効率性という側面でしか捉えていないか?

ケインズの一般理論は1936年の発表、米国を中心としたバブルの崩壊によって世界恐慌の真っ只中にあった。その時は財政出動により「子供を元気づける事」が最大の方法と理解され実行された。一方でケインズが子供の投機を制限する、という政策の重要性も主張している点は相対的に顧みられなかったからと考える。財政出動の有効性は一時的なものでしかなく、「臨時のおこづかい」を出し続ける事は財政的にも政治的にもあり得ない。だからといって子供の投機を制限する必要はない、という結論にはならない。合理的期待形成学派は子供をすべてを合理的かつ公正に行動する経済主体として捉えるが、子供は欲という感情に左右される非合理的な存在である事は最近のサブプライムなどバブルの歴史からも明白である。子供に「やり過ぎてはいけない」と言う事は必要な事である。

ケインズ主義と言った時、行き過ぎた福祉とか、穴を掘ってまた埋める、浪費の様な財政出動、といったものを連想していないか?我々は数学やコンピュータ論理においてすらもはや完全性の否定された現代に住んでいる。より複雑な経済が非合理的なのは当然であり、経済が、そして資本主義がすべて合理的な結果を導き出すなどあり得ない事を知っている。

蛇足

 我々は完全性の否定された資本主義を活きている。