毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

どうしてガリレイは「天文学の父」として歴史に名を刻めたか?~まずは手を付ける事

 ケプラーとガリレイ: 書簡が明かす天才たちの素顔  

パドヴァ氏はドイツのサイエンスライター。本書は理論家とケプラーと実践家のガリレオが対比されて描かれている。

 

ガリレイは成功したコンサルタントだった

ガリレイはこの時パドヴァ大学の数学の教授だった。パドヴァ大学といえば誰もが認める国際的な教育機関で、義務としての授業時間はごくわずかで、それよりも多くの時間を個人授業に費やしていた。豪華な邸宅を維持し、定期的にヴェネツィアに対さしし、妹たちの持参金を用意するために、45歳の都市貴族(ガリレイ)は個人授業をしていた。(17ページより再構成)

 

1609年の夏、オランダで開発された望遠鏡の情報を得、1カ月で形にする

「望遠鏡」のことを最初に彼に話して聞かせたのは、発言力のある政治家で学者のパオロ・サルピだと言われている。なんでもそれは遠くの物の像を拡大し、眺める人間のすぐ前へもってくることができる器具なんだそうだ。実験にかけては経験豊かなガリレイは、はやばやと秘密を解き明かし、必要な磨いたガラスを手に入れ、サルピに、見取り図はもう目の前にありますと報告した。それから3週間とたたない8月21日に、望遠鏡を手におおやけに名乗り出て、ヴェネツィア政庁の要人だけでなく、覗く機会をあたえられたすべての人を仰天させている。(20ページ)

 

ガリレイのアドバンテージ~自分の研究室

必要な情報を手に入れれば、研磨してある凸レンズと凹レンズを各一枚使って願っていた拡大を実現するにはもはやさほど悪戦する必要はない。ガリレイヴェネツィアの職人たちと接触があり、自宅には十分に仕える作業場を持っていた。これは、大学にまだ研究用の実験室がなかった時代、そして学問と技術の連携がまだ確率されていないかった時代には評価できあにほど有利なことであった。

 

テクノロジー上の工夫

ガリレイの望遠鏡に使われていた(直径8.5㎝の)レンズは、(中略)レンズの表面の形が申し分ないこと、研磨が極めて念入りになされれていること、を示している。しかし、それは中心から3.8㎝の範囲内に限ってであった。周縁部分は仕上げがずさんなのだ。自分が創る望遠鏡には大きな対物レンズを使い、レンズの周縁部分は環で覆ったのである。覆いの環をはずしたら、遠くの対象はぼんやりとしか見えない。彼は自分の実験室でレンズを組み合わせをテストし、倍率と距離を確認したのち、雇ってあった職人に組み立てさせて精巧な器具を完成した。(32ページ)

f:id:kocho-3:20140311062520p:plainガリレオ・ガリレイ|キヤノンサイエンスラボ・キッズ

上の筒が×20倍、下の筒が×4倍。他の望遠鏡は10倍以下の倍率、驚異的な倍率を達成していた。

 

1610年3月世界初となる望遠鏡を使った天体観測記録「星界の報告」を出版

ガリレイは自分で作った望遠鏡で夜空を観察し、詳細な報告書を出版する。「月は滑らかな一様な、完全な球体ではなく、起伏に富んでいて粗く、いたる所に窪みや起伏がある。山脈深い谷によって、ひとつとして同じ形をした場所がない地球の表面と変わりない。」(66ページより再構成)

 

ガリレイは自ら、そして素早く行動する、実践の人だった。

ガリレイ天文学の著書天文対話(1632年)で登場人物は「なぜ君は自分で観察しなかったのですか?なぜ自分自身の目で見なかったのですか?」 と言っている。望遠鏡を自分で作り、望遠鏡を夜空に向け、望遠鏡の記録を出版した最初の人間だった、これらのコンセプトと圧倒的なスピード、これが今も歴史に名を残している理由。

 

蛇足

まずは手をつける事、100年単位で考えれば何であれ出遅れなどない。