毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

漢字は1字で深い情報量を持つ、「逢い引き」はあるが「遇い引き」はない

漢字伝来 (岩波新書)

 大島氏は言語学の研究家、 「およそ二〇〇〇年前にやってきた中国生まれの漢字を、言語構造の異なる日本語の中にどのように取り入れたのだろうか。」

 

漢字は「表語文字」、漢字の三要素~形・音・義

漢字は、その一字一字が語(word)を表すという「一字一語の」の原則に貫かれた、いまや世界でも珍しい文字である。そして、その漢字の音(発音)を字音といい、その漢字の義(意味)を字義といい、その字の形、すなわち字形と併せて漢字の〈形・音・義/けい・おん・ぎ〉とよぶ。つまり漢字はこの三要素で構成されている文字ということになる。古代日本の人々は字形はそのままに、他の二要素は自国語に同化させる工夫をこらしながら導入した。すなわち、義は中国語と同じ意味の日本語に訓みかえて(雪→ゆき)受容し、また音は日本語化した漢字音(雪→セツ)として取り入れたのである。(14ページ)

欧米人の文字に対する見方=記号~アルファベット

言語学とは「人類の言語の構造・変遷・系統・分布、言語相互間の関係などを研究する学問」とされる。この定義によれば、そこでは「文字の問題は範囲の外におかれているようである。このことは、言語学という学問が、アルファベットを表記手段とする欧米人の言語・文字観にささえられて発展してきたことが、その背景にあると思われる。(212ページ)

要約すれば「文字は言語ではなく、ただの記号」、ということ。

 

 漢字を自家薬籠中にした日本人~古事記(8世紀初頭)の時代から

漢字を自家薬籠中のものとした私たちの祖先は、漢字を言語と密接に関わるものと認識していたと思われるのである。その様に推測する拠り所の一つに、いわゆる「同訓異字」がある。それは、二つ以上の異なる漢字で訓(よみ)は同じ、つまり基本の意味・内容は同じであるが、用法の違いによって明確な使い分けが認められる事例である。

同訓異字の例~「アウ」(合・遇・逢)

合:元来別なるもの、分かれているものが合して一つになる意。主に男女の交合に関し

    て用いる。

遇:期せずしてあう、思いがけずふと出会うの意で、その相手は初見の人が多い。

逢:予め出会うことが、約束や予期によって知られる場合に用いる。

(中略)

同訓異字はわれわれに語る事、それは「古事記」の作者、太安万呂によって代表される当時の有識者たちは、音声ではなく、もっぱら視覚に訴える漢字という文字が、欧米の言語苦学者が説く様な、言語の外側にあるものではなく、言語を構成する重要な要素であることを十分に認識していたということではないだろうか。さもなければ、用法上の相違を漢字の違いによって書き分けることなど、できなかったはずである。(215ページ)

 

漢字は情報を形に依存し、アルファベットは情報を音に依存

漢字が「字」に依存するのは当然である。一方アルファベットは音を正確に伝える事による情報伝達に依存しているのであろう。漢字が変化し易い発音と切り離されているからこと時間と地域を超えて情報量を伝達できる。この文脈で書道を捉えられよう。一方アルファベットは少ない文字数で情報量を伝達する。

 

蛇足

文字では伝達できない情報もある。