毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

パルテノン神殿は誰のもの?

物語 近現代ギリシャの歴史 - 独立戦争からユーロ危機まで (中公新書)

村田氏は近代現代ギリシャ史の研究家。

 パルテノン神殿

パルテノン神殿そのものは、今日もギリシャの首都アテネのアクロポリスの丘に存在する。紀元前5世紀半ば、アテネは政治指導者ペリクルスのもとで、民主政の黄金期を迎えた。パルテノン神殿は、ペリクルス時代の公共事業の精華と見なされる建築物である。神殿はギリシャ神話に基づく、女神アテナの生誕、アテナと海神ポセイドンの戦い、ギリシャ人とアマゾン族との戦い、トロイ戦争、などを描いた彫刻によって飾られていた。

 2000年にわたるパルテノン神殿の変遷の再現CG 


Parthenon by Costa-Gavras - YouTube

 

西欧社会はパルテノン神殿を救出した

今日、これらの大理石彫刻の一部はアテネに残されているが、それ以外のほとんどの部分は、ロンドンの大英博物館に展示されていて、一般にはエルギン・マーブルとして知られている。19世紀はじめ、これらの彫刻をイギリスへ運ぶ作業を主導したイスタンブール駐在のイギリス大使第七代エルギン卿にちなんだ名前である。(3ページ)

1801年、エルギン卿は、オスマン帝国からの許可を経て、パルテノン神殿の彫刻群を切り出し、イギリスに移送しようとした。(中略)それらをイギリスに運ぶにあたり、彼には正当な理由というべきものがあった。古代ギリシャは、ヨーロッパ人が共有する過去であるという理由である。この主張の背景には「ギリシャ的理想(Hellenic Idela)」と呼びうる、18世紀ヨーロッパが古代ギリシャに見いだした様々な価値に対する称賛と憧憬があった。(14ページ)

ギリシャは2000年以上(!)を経て1830年に独立

エルギン卿が、パルテノン神殿から大理石彫刻を運びだた19世紀はじめ、ギリシャという国はなかった。それだけではない。それ以前の時代をどこまで遡ってもギリシャという一定の地理的領域を持つ政治的統一は、歴史的に存在した事がないのである。(7ページ)ギリシャの2000年以上(!)を経て1830年に独立

ギリシャ人の歴史を眺めた場合、ギリシャ人が政治的な自由を享受し、独立を謳歌していた時代は、紀元前338年のカイロネイアの戦いにおいて、ギリシャ連合軍がマケドニア王国に敗北した時点で終焉したと考えられた。(25ページ)

1813年ウィーン会議によって決まったナポレオン後の西欧政治秩序維持という観点から、ギリシャがオスマン帝国の属国でいる事はロシアのギリシャへの介入を生じさせる、という恐れにより1830年イギリス、フランス、ロシア、のロンドン議定書締結によってギリシャが政治的単位として初めて認識される様になった。(59ページを再構成)

大英博物館は一時預かり人

2000年単位で考えた時、政治的は当然として、継続してきた文明は存在しない。常にその担い手が変わっていく事がわかる。大英博物館もその文脈で考えるとパルテノン神殿の一時預かり人という事。