毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

人生の大局観 その意味を皮膚感覚にする為に

将棋とは

将棋(しょうぎ)は、チェスなどと同じく、インド古代のチャトランガが起源と考えられ、日本の記録は11世紀までさかのぼる事が可能。16世紀頃、持ち駒(相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール)がルール化され現在の将棋に至る。将棋はゲーム理論からは二人零和有限確定完全情報ゲームに分類され理論上は完全な先読みが可能だが、実際には選択肢が多くなると完全な先読みを人間が行う事は困難であるため、ゲームとして成立する。(wikiより)

大局観とは

羽生善治氏は将棋棋士。大局観 自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21)で以下の様に説明する。

「大局観」では、「終わりの局面」をイメージする。最終的に「こうなるのではないか」という仮定を作り、そこに「論理を合わせていく」ということである。最終的に「こうなるのではないか」という仮定を作り、そこに「論理を合わせていく」ということである。簡単にいえば勝負なら「勝ち」を想定する。(123ページ)

体力や手を読む力は、年齢が若い棋士の方が上だが、「大局観」を使うと「いかに読まないか」の心境になる。将棋ではこの「大局観」が年齢を重ねるごとに強くなり進歩する。同時に熟練になり精神面でも強くなると60歳、70歳になって、この「大局観」は戦うための柱になる。(23ページ)

 

70歳の覚悟

将棋はインターネットにより劇的に変わったのだそうである。将棋が強くなる為の、過去の対戦記録の入手・整理、ITを活用したコンピュータ将棋による対戦経験、これらのものがITにより効率的かつ安価に手に入る時代である。これは若手の台頭、将棋の質(定石や新手の変化)を引き起こしている。羽生氏は「人生は突き詰めてはいけないと思う。何のために闘うのかは。70歳になってからじっくり考えたいと思う。」(234ページ)羽生氏にとって人生、少なくとも70歳までの大局観とそれに向けて努力するという覚悟ががある。私は大局観の意味を皮膚感覚として初めて認識できた。

蛇足

大局観、とは将棋や囲碁から生まれた言葉、逆さまが「ヘボ将棋、王より飛車を可愛がり」であろう。