毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

なぜ人は芸術を崇めるのか?~『芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神』松宮秀治氏(2008)

芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神

芸術崇拝がヨーロッパでいかにして生まれ、どのように広まっていったかを、近代国民国家の政治原理である政教分離とからめて論じていく。(2008)

宗教と芸術の交代

政教分離とは18世紀後半から19世紀にかけて、国家と宗教の対立が激化し、歴史上かってなかった新しい政治と宗教の関係がうみだされていくなかで両者の和解が不可能となったとき、教会の側が「キリスト者の自由」を守るためにみずから国家への関与から身を引いたことである。・・・政教分離とは国家の政治的な力による国家機構からの宗教の排除のことではなく、むしろ宗教の方が国家に取り込まれることからみずからの「信教の自由」を守ろうとした結果だったということである。そしてキリスト教が国家権力から離反した空隙を埋めるために、近代国家によって生み出されたのが「市民宗教」(社会的宗教あるおいは国家宗教)であり、新たな「神」というより「神々」として祀られたのが「芸術」「歴史」「文化」「科学」である。そしてそれらの神々を祀る新しい国家神殿がミュージアムなのである。(55ページ)

18世紀末から19世紀初頭にかけてヨーロッパでは宗教と芸術の位置は完全に逆転する。宗教は個々人の内面に慰安、今日のわたしたちの言葉でいえば「癒し」の領域にとりこまれ、代わって「芸術」が市民社会の公共の典礼となる。(28ページ)

 芸術が自律化するということ

芸術が自律化すると、芸術の制作と評価規準が「創造性」「独創性」「個性」というものになる。ヨーロッパの伝統において「創造する」(cration)という言葉は神のみの属性を表す語であって、世界の聖なる創造ということを明確な背景として使われてきた。(64ページ)

・・・自律的な価値を与えられるというということは、・・・「芸術家」とは理念的にはみずから神となって、自己の作品を通じて、歴史と社会がいまだ発見しえなかった新しい価値を創出する「創造者」となることである。

芸術至上主義

西欧中世のキリスト教社会で「わたしは神なんて信じてもいませんし、また存在するとも思っていません」と公然といえなかっただけでなく、家族間でもまた恋人や許嫁のあいだでさえもいえなかったはずだ。「芸術」否定論が公然と表明されないのは、それが近代の「神」だからである。(222ページ)

はっきり言ってしまえば、芸術などわからなくとも人生にとってなんの損失でもなく、また損失だと思わない人の存在していることに気付こうともしないし、また気付かない態度である。ここには芸術がわからない者は「俗物」であるという抜き差しならぬ西欧の「芸術」の思想の伝統に犯されている・・・。(235ページ)

 

芸術崇拝の思想

松宮氏は西欧社会のつくり出した「芸術」はせいぜい200年の歴史しかなく、普遍性のあるもの、ではないと言う。西欧社会で大きな位置を占めてきたキリスト教が後退、「芸術」がキリスト教の地位にとって代わったという。芸術が神になったのである。芸術作品に何十億円という価格が付くのも芸術が神、だからであろう。

西欧社会のルールで生きる我々もまた芸術至上主義に浸されている。この芸術至上主義を外してみたとき、芸術にどういう価値を見いだすのであろうか?

蛇足

 

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