毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

仏教用語「空」と数字「0」は語源が同じだった~『 運が99%戦略は1% インド人の超発想法』山田真美氏(2016)

 運が99%戦略は1% インド人の超発想法 (講談社+α新書)

 山田氏はインド神話の研究家、30年に渡りインドと向き合ってきた。本書はインドと日本の比較文化論。(2016)

 

0はインド人の発見

よく知られているように、「0」の発見はインド人の偉業である。・・・数としての「0」が人類史上に初めて登場するのは、ブラクマグプタという名のインド人数学者が西暦628年に著した“Brahmaspasiddanta”という書物の中である。このときブラクマグプタは、「0」を「シューニャ」と名づけている。「シューニャ」はサンスクリット語で「空っぽ」という意味である。

この言葉を聞いて、少しでも仏教を学んだことのある人なら「おや、仏教にもこれと同じような言葉があるぞ」と思い出すのではないだろうか。仏教用語には「シュニャータ」という言葉があって、日本では一般的に「空」と訳されている。・・・「シューニャ」は形容詞、「シュニャータ」は名詞という違いがあるだけで、両者は同じ言葉なのだ。(157ページ)

0と空は同じ

インドから中東、中東からヨーロッパへと何百年もの時間をかけて旅をしているあいだに、「シューニャ」→「シフル」→「ゼフィラム」→「ゼロ」と名前こそ変わったとはいえ、私たちが現在ゼロと呼んでいる数は、もともとは仏教の「空」と同じ言葉を持っているのだ。・・・インド人の友人がこんなことをいっていた。砂の上に1個の石があるとする。その石を取り除くと、砂の上にわずかな窪みができる。窪んだ空間こそが「0」なのだと。仮にそうであるならば、「0」とは「何も存在しない」という意味ではなく、「無というものが存在する」ということなのだろうか。(159ページ)

運が99%戦略は1%

インド人が(日本人と)違っているのは、古くからの人生訓や身分制度を通じて、人は自分で生きていられるのではなく、カルマや目に見えないものの力で行かされているということを徹底的に教えられていること。

人生は、自由になる部分も時間も、ごく限られている。だからこそ、自分の出番が回ってきたら、本気で、全身全霊で戦え。だって次の出番は1億年後かもしれないじゃないか。(48ページ)

インド人の超発想法

山田氏は「36年にわたってインド人とつきあい、インドという国と常に真剣勝負で関わってきた」(9ページ)。

山田氏は日本でインド人は掛け算の天才、あるいは数学的センスがインド人を世界的経営者を育て上げたと言われる背景を掘り下げる。インドでの数学は仏教など哲学的要素を持っていると指摘する。「シューニャ」あるいは「シュニャータ」とは「空」「虚空」「開かれていること」「広い空間「」「無」「存在しないこと」などを意味する。0とは無というものが存在するということなのである。

山田氏は“砂の上の石“をどういう人から聞いたかは書いていない。数学の専門家というよりインドの一般的な知識人と考えていいであろう。0と空が同じ概念だということが一般の人から語られることに驚かされる。インド人の発想の秘訣は抽象概念を扱う能力にあるのかもしれない。

蛇足

空とは「 」(空欄)と1の上位概念

こちらもどうぞ

 

 

kocho-3.hatenablog.com

 

 

kocho-3.hatenablog.com