毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

コピーのどこがいけないのか?~『シミュレーショニズム』椹木 野衣氏(2001)

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

 椹木氏は美術評論家、恐れることはない、とにかく「盗め!」世界はそれを手当たり次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ―(2001)

 

 戦後のアートが到達した地点

第二次世界大戦後の)アメリカの美術がそうだったと思いますが、絵画であるとか彫刻であるとか、こうした近代芸術の根幹をかたちづくる形式というものは、70年代の後半ぐらいまでにおおむね解体しつくされて、もはや絵を描いたり石を刻んだりということが素朴な形では不可能になったということが挙げられます。・・・全般に70年代はそういう芸術原理論的な探究の色彩が非常に強い時代だったと思います。そして、そうした先端部には、もうこれ以上芸術を個別の要素に還元することができないくらい徹底した、さまざまな実験的な動向が存在したわけですね。(11ページ)

シミュレーショニズム

シミレーショニズムにおいては、ありとあらゆる起源というものが否定されている、ということです。いまあるすべてのものが起源を遡れるとして、最終的にすべての事象がそこから生まれ、展開していくための、それ以上さかのぼることのできない起源というものを決定的に否定するわけです。(107ページ)

西欧芸術の原点は「無からの創造」

神学上の議論でも、この世界が作られたときに、それが無から創られたのか、それとも先行するなにか原物質のようなものがあって、それを「編集」することでこの世界は生まれたのかというのが、原始キリスト以来ずっとある難問でした。が、現在に至るまで、キリスト教の主流は「無からの創造」という考え方に沿ってかたちづくられています。そして、西欧の芸術というものは、原理的には「無からの創造」という考え方に沿ってかたちづくられています。(109ページ)

シミレーショニズムは「無からの創造」を否定する

神学的に言えばシミュレーショニズムはあきらかに・・・(無からの創造を否定する)起源を否定して混沌と編集を取るわけですから、そこには、キリスト教正統から見ると、どうしようもなく異端とされるようなイメージが数多く混入してくる。・・・世界はつねにあらゆる方向に同時かつ錯乱的に拡散しちえるというべきでしょう。あらゆるものがあらゆるものと関係を持ち、一瞬たりとも変化しないことはない、それだけが唯一の真実です。そしてその一つの現れが、現代のさまざまな複製メディアを通じて、70年代後半くらいから多様なかたちで見られるようになった‐それが(アートの)シミュレーショニズムであり(音楽の)ハウスミュージックなのです。(112ページ)

 

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MoMA | Cindy Sherman. Untitled Film Stills. 1977–80

シンディ・シャーマンによるセルフポートレート写真、ヒッチコックのような、映画のスチル写真を連想させる

シミュレーショニズム

美術史において至上の価値は“決定的に新しいこと”(51ページ)である。あるいはシミュレーショニズムにおいては“あった”というべきであろう。アートが新しいことを突き詰めていったとき、そこには未来は絶えず発展していくという進歩史観を肯定できない局面に至っていた。

我々は基本的には進歩史観に基づいて考えている。しかしシミュレーショニズムが象徴する様に、世界をサンプリングし編集する、歴史を行ったり来たりする、それによって混沌としているが芳醇な世界が成立しているのだ。我々は一直線に進歩史観だけの道を歩く必要はない。

蛇足

コピーして何が悪いか!

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