毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

本にどうして値段が付いているのか?~『 街場のメディア論 』内田樹氏(2016)

 街場のメディア論 (光文社新書)

内田氏はフランス思想史の研究家、評論家、僕は自分の書くものを、沈黙交易の場に「ほい」と置かれた「なんだかよくわからないもの」に類すると思っています。(2010)

 

どうして書物には値段がついているのか?

原理的に言えば、書物は商品ではなく、出版事業は金儲けではありません。僕は理想論やきれいごとを言っているのではなくて、根本的に考えればそうなると言っているのです。

書物が商品という仮象をまとって市場を行き来するのは、そうしたほうがそうないよりてクストのクォリティが上がり、書く人、読む人双方にとっての利益が増大する確率が高いからです。それだけの理由です。(138ページ)

執筆とは贈与

本を書くというのは本質的に「贈与」だと僕が思っているからです。読者に対する贈り物である、と。

そしてあらゆる贈り物がそうであるように、それを受け取って「ありがとう」と言う人が出てくるまで、それにどれだけの価値があるかは誰にもわからない。・・・その作品から恩恵を蒙ったと自己申告する人が出てきてはじめて、その作品には浴するに値するだけの「恩恵」が含まれていたということが事実になる。

はじめから作品に価値があったわけではないのです。(146ぺージ)

我々の社会の構造

テクストはさまざまな経路を通じて次から次へと手渡されます。その段階では、テクストの手渡しは、本質的には商取引ではありません。それは「あ、これどうぞ」と無償で手渡されます。それがある段階で「反対給付義務」を感じる読者に出会う。・・・まずは自分に直接それを贈ってくれた人に「お返し」をする。それを受け取った人も同じように自分にそれを贈ってくれた人に返礼する。そうやってやがて贈与の起源にまでたどりつく。

人間の社会的活動は、ぎりぎりまで骨組みを露出してみると、そういう構造になっている。(173ページ)

読み手の能力

僕たちの資本主義マーケットでは、値札が貼られ、スペックが明示され、マニュアルも保証保もついている商品以外のものには存在する権利すら認められていないのですから。その結果、環境の中から「自分宛の贈り物」を見つけ出す力も衰えてしまった。・・・「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であるとみなされる環境から。それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直観し、拾い上げる能力のことです。(204ページ)

待場のメディア論

テレビ、新聞、そして書物など広い意味でのメディアが危機に晒されている。一般的にはインターネットの普及などの流通網の変革が原因だと分析される。内田氏はそこにはもっと根本的な、メディアが視聴者・読者への“贈与”、であるということを蔑ろにした結果だと分析する。メディアがコンテンツ自体の持つべき“贈与”の機能=考えもしなかった価値を提供する、という仕組みを忘れ、原価と等価な価値しか持たないコンテンツを提供することに甘んじていることになる。メディア自らコンテンツをコモディティ化している。資本主義は価格を低下させる永久運動を続ける。

本の表面的価格は印刷費用と物流コスト、本来の価値は別の形で存在している。

人はコモディティだけでは生きられない。社会は贈与を受け、そしてその受け取った分を別の人に手渡す、そのサイクルで回っているのだから。

蛇足

本の本質的価値を生むのは読者(真実は陳腐でもある)

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