毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

文学は人の心も現実も描くものなのか?~『文学の読み方』さやわか氏(2016)

 

文学の読み方 (星海社新書)

さやわか氏はライター、評論家、いったい日本の文学とは何なのでしょう? (2016)

 

日本文学の錯覚

・・・この本の大きなテーマである、日本文学に染みついた二つの錯覚の成り立ちについてお話します。具体的に言うと、ふたつとは

  1. 文学とは、人の心を描くものである。
  2. 文学とは、ありのままの現実を描くものである

というものです。本書ではこれを、「文学的錯覚」と呼ぶことにしましょう。(50ページ)

(明治時代の口語と文語の言文一致は)完全な口語体でもなく、昔ながらの文語体でもない新しい文体を生み出したにすぎない。まして現実空間で交わされる言葉にしたからといって、人の心や現実そのものを描けるだけではありません。しかし、坪内逍遥の始まる明治時代の人々はそういう方向性に向かって突き進んでしまいました。(72ページ)

ライトノベルは文学か?

村上春樹ライトノベルが、明らかに荒唐無稽な虚構そのものを描写しようとしている、ということです。その意味では、彼らは文字で書いたもので現実を描けるとは全く思っていない。しかしそれなのに読者が「リアル」だと感じる・・・(219ページ)

これ(虚構をリアルだと感じること)は小説、あるいはフィクション全般の本質を突いている話ではないしょうか。つまり僕たちがある小説をリアルだと感じるのは、その作品が現実そのものを描いたからではないのです。むしろ「文学は現実を描くものだ」という錯覚をうまく機能させた作品こそが、真に迫っていると判断され、特に文学として優れている、と評価されることになる。(224ページ)

文学にとって重要なのは何か?

文学にとって真に重要なのは現実を描くか、漫画やアニメの世界を描くか、あるいはゲームを描くかということではないのは明らかでしょう。・・・大事なのは文字だけを使って「あたかも~のように思わせる」というその錯覚、ただそれだけが重要なのです。(235ページ)

文学の読み方

さやかわ氏によれば日本の文学、特に純文学は「文学は現実を描ける」「文学は人間を描ける」という“錯覚”に囚われているという。あえて純文学という言葉を使った。本書では村上春樹が日本では当初評価されなかったのも、今ライトノベルが漫画やアニメの世界を描くことで文学とは未だ認められていないのも、この現実を描くことを狭義に解釈した結果だと論じる。小説の写実主義がもっと範囲を拡大してきている。

本書でも芥川龍之介が絵画の写実から抽象への移行を比喩に使った例が引用されている。絵画は写実から抽象へ、あるいは写真が芸術として認められ、モダンアートでは新しいメディアが試されている。2016年のノーベル文学賞ボブ・ディラン氏が選ばれたのもこの文脈で解釈できるのであろう。文学とは“主に”文字を使って、「あたかも~のように思わせる」ものである。いつか、さやわか氏が言うようにコンピューターゲームのシナリオもまた文学と認められる時代が来るのであろう。

それまで我々は読者として、様々なジャンルの虚構の世界にリアリティを感じて愉しめばいい。

蛇足

文学の範囲に定義は存在しない

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