毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

問題は本当に欲しいものは売っていないこと~『経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ』佐伯啓思氏(2012)

経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ (講談社現代新書)

 佐伯氏は経済学、現代思想の研究家、私たちが、誤った「思想」を信じ続ける限り、危機からは脱出できない。(2012)

 

 

希少性の経済

「希少性」という概念が登場したのは、先にも述べた19世紀後半の「限界革命」であり、それを経済学の主題にすえたのは、20世紀に入ってライオネル・ロビンズが「経済学は希少性に関する科学である」と定義したからであった。(296ページ)

希少性とは“見せかけ”である

あるモノについて他者と競合するからこそ「欲望」が発生する。対象との間に障害があり、距離があるからこそ、その対象にたいする「欲望」が発生するのだ。だから、他者が欲しがっているモノをほしがるという相互模倣的な欲望は、それ自体がいっそうの「欲望」を生み出すことになる。(275ページ)

貨幣とは過剰性から生じる

もしも「欲望」が、その対象の入手困難さ、すなわち「距離によって生み出されるものだとすれば、人はそれを手に入れるためにまずは「貨幣」を確保しなければならない。(281ページ)

過剰性は常に存在する

太陽が人間の生命維持以上の過剰なエネルギーを提供したという点になる。これは自然の人間への贈与であった。生命体は、この太陽エネルギー(自然のめぐみ)によって成長する。しかしそれ以上の過剰性は浪費するほかない。この浪費は未開社会においては、自然や聖なるものへの対抗贈与や供犠としてなされた。

現代では過剰性は投資によって吸収される

宗教的信仰や巨大な教会建立という宗教的贈与を持ちえない近代社会において、果たして過剰性は何をもたらしたのだろうか?それは経済成長であった。富は破壊されずに投資され、将来の富へと先延ばしにされたのである。富の破壊という壮大な浪費が否定された時に経済成長が始まった。(270ページ)

本質的な価値は市場では供給されない

消費者はあくまで市場に並べられたアイテムのなかからしか選択できない。目に見えないもの、そこには存在しないものを選択することはできない。また人々は市場に並べられたモノを選択するのであって、システムについて選択するわけではない。たとえば自動車の車種については選択するが、交通システムを選択はできない。そして今日、本当に必要なのは、自動車の車種を増やすことではなく、自動車を便利に快適に利用できる交通システムや都市環境の整備であり・・・(305ページ)

経済学の犯罪

佐伯氏は従来の経済学は終わっている、と指摘する。希少性があると思わせるモノへの欲望、最終的には貨幣に対する欲望を喚起することで拡大してきた資本主義の前提自体が間違っていると言う。

そもそも貨幣が存在するのは過剰が発生するからであり、突き詰めるとそれは太陽エネルギーの過剰に行き着く。つまりは我々は日々豊かになっているのであり、希少性とは逆さまの状況にある。

今一番の問題は過剰を吸収するだけの欲望が存在しないことであろう。そしてそれらは通常の市場経済では供給されない、新しい社会システムを可能とする何か、なのである。

我々の本当に欲しいものは市場では買えない。

蛇足

欲しいものは自分で作る!

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