毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

宗教と戦争の共通点、それは愛~『キリスト教と戦争』石川明人氏(2016)

キリスト教と戦争 (中公新書)

石川氏は戦争論・宗教学の研究家でありキリスト教徒。世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ「愛と平和」を祈りつつ「戦争」ができるのか?(2016) 

キリスト教と戦争

これかでのキリスト教史においては、文字通り自分をキリストに従う「兵士」と自覚し、軍隊に加わるのと同じ感覚で教会や修道院に加わり、信仰を「戦い」と認識した人々も少なくないのである。キリスト教徒たちは、皆が静かに優しく愛を説く、おとなしい雰囲気の人たちばかりだったわけではないのだ。(151ページ)

現在のカトリック教会

カトリック教会は、現在でも軍事行動を全面的に否定しているだけではない。もう少し丁寧に言い直すと、確かに平和な世界を望み、戦争を悪として強く非難しているものの、現状においてはいかなる武力行使も認めないというわけではなく、正当防衛としてのそれは権利でもあるとして、条件付きの軍事行動には肯定的な立場をとっているのである。(23ページ)

宗教による違いはあるか?

宗教の違いそのものがすぐに武力闘争を生む訳ではない。また、仏教徒ヒンズー教徒も、これまでの歴史では戦争に関わってきたのだから、一神教は他と比べて特に不寛容で暴力的だというのも、単なる偏見である。(200ページ)

キリスト教に限らず、長い歴史をもつ宗教のほとんどは、何らかの形で戦争や暴力と関わってきた。キリスト教におけるそれが特に目立って見えるのは、キリスト教が世界最大の信者数を持ち、信者は特定地域ではなく世界各地におり、さまざまな記録も多言語で膨大に残されており、研究者の数も多いからである。(212ページ)

宗教と戦争

宗教が戦いの際の旗印として用いられることはよくある。伝統的宗教ではない世俗のイデオロギーや民族・国家意識が疑似宗教化することもある。だが、戦争というのは、人々が殺し合いをする壮絶な営みであり、その社会の存亡もかかった実に深刻なイベントである以上、キリスト教であろうが、靖国神社であろうが、「宗教」が何等かの関わりを見せるのは、単に自然なことである。

戦争の根本には「愛」がある

戦争の根本にあるのは、善意と悪意の入り混じった、混沌とした理性と情念である。戦争が手に負えないのは、人間そのものが不可解だからである。「愛情」や「優しき」だけでは、戦争を止められない。もちろん、それらなしに平和はありえないだろうが、それらによって戦争が正当化されることもあるからだ。総じて人は、「悪」を意識している時よりも、「善」を意識している時の方が、凶暴になり、他者を傷つけることをためらわないものである。(216ページ)

人間の執着

著者は、人間は物質的な充足、精神的な充足、そして真理への憧れ、から離れることはできないという。それが人間の生そのものだからである。こうやって考えると宗教活動も戦争も同じフレームワークで認識できる。宗教も戦争もその動機は、物質・精神的充足、真理追求に分析できることになる。我々は自分を愛するが故に、宗教活動や戦争に活路を見出す。もちろん戦争を民族意識、国家意識、更には会社など組織への帰属意識、と拡張できる。

著者はキリスト教徒として「キリスト教は、それ自体が「救い」であるよりも、「救い」を必要とするのに救われない人間の哀れな現実を、これでもかと見せつける世俗文化である。」と語る。本書は宗教を通じて人間の哀れな現実に気づかせてくれた。

蛇足

愛が戦争を生む

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