毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

「世界はつねに、 勇気ある者のための劇場である。」と言えるのはなぜか?~『プラグマティズムの思想』魚津郁夫氏(2006)

 プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)

魚津氏は西洋哲学の研究家、アメリカの思想は「体系を排すること、眼前の事実を重視すること、物事の理由を権威にたよらず独力で探求し、結果をめざして前身すること、定式をとおして物事の本質を見ぬく」プラグマティズムである。(2006)

 

プラグマティズム

ウィリアムジェームズは、たとえどのような観念でも、それを信じることがその人に宗教的な慰めを与えるならば、「その限りにおいて」これを真理としてみとめなければならないという真理感をとなえた。(13ページ)

宗教とは、孤独の状態にある個々の人間が、たとえなんであれ、自分が神的に存在と考えるものと関係していることをさとるかぎりにおいて生じる感情、行為、経験である(164ページ)

 アメリカの思想の底流にあるもの

1620年アメリカ東岸のプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズの例が示している。開拓民にとっては、どんな抽象的な思想も、それに基づいて行動したかった結果がどうであるかという観点からとらえられることになる。したがって・・・体系的、伝統的な観念にすばられることなく、眼前の事実を直視し、結果をめざして前進し、定式をとおして環境の本質を見ぬくことによって環境を変えていくことが、人びとの哲学的方法(考えかた)となるのは当然といわなければならない。(12ページ)

科学と19世紀の悪夢

19世紀は実験と観察にもとづいて理論を構成する実証的な近代科学が目覚ましい発展をとげた時代である・・・(機械論、決定論的な)近代科学の発達は、思想界に、一方では、事実の重視、もしくは具体的経験の尊重といった観念をもたらすとともに、・・・「物質と因果性の領域を拡大することによって、人間の思想の全領域から、いわゆる精神と自発性をじょじょに追放してしまう」のではないかという不安感をもたらした。(52ページ)

科学と有神論を統合するもの

神の観念は、機械論的な唯物論がもちいる数式にもとづく理論にくらべると、明瞭さにおいては劣っているけれども、少なくともそれを信じるものに対して、永遠に保持されるべき理想的秩序を保証するという点においては、数学的観点よりまさっている。(60ページ)

「科学に対する情緒的反動」ともいうべき有神論もまた有意味であることをみとめたのである。まさにこれこそが、ジェイムズ自身がいうように、科学と反科学の「両方の要求を満足させることのできるひとつの哲学」であった。(61ページ)

プラグマティズムの思想

アメリカで発展したプラグマティズムの思想には、開拓民としての思想、科学の発展、大局としての宗教をどう位置づけるか、という背景があった。ダーウィンの進化論、ラプラスの悪魔と呼ばれる決定論、クラウジウスの宇宙の熱学的死、など19世紀の科学は人を不安にさせていた。その不安から解消方策として宗教の役割を再定義したと言える。

ジェイムズの言うことを俗な形で言えば「鰯の頭も信心から」であろう。鰯の頭を飾ることに意味がなくても、科学によって生じた不安を打ち消せるのであれば、宗教的なものにも意味があると主張した。

ジェイムズの名言は今も人々に受け継がれている。ジェイムズの名言がどうして輝きを持ち続けるのか、その根底にはプラグマティズムの思想があったと知る。

ウィリアム・ジェ。イムズの名言

できるかどうか分からないような試みを、 成功させるただひとつのものは、まずそれができると信じることである。

人生をもっとも偉大に使う使い方というのは、 人生が終わっても まだ続くような何ものかのために、 人生を使うことである。

世界はつねに、 勇気ある者のための劇場である。

ウィリアム・ジェームズの名言 | 地球の名

蛇足

信じるものは救われる

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