毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

今、卒論を書くとしたら何を書けるか?~『いま、中世の秋 (中公文庫)』堀越孝一氏(1987)

いま、中世の秋 (中公文庫)

 堀越氏はヨハン・ホイジンガの学問を受け継ぎ、西洋中世を専門とする。

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卒論の効用

卒論本来の効用は、ともかくも1年以上ものあいだ、狙ったテーマをめぐる思索の持続を学生に強制するところにある。しかもそれが空の思索ではない。要求されているのは、70枚から100枚の原稿用紙の枡目ひとつひとつに文字を埋めていくという作業であって、この作業自体が逆に思考を励起するといった仕掛けになっている。およそ文章を書くということはそういうことであって、大学の、とりわけ文学部とはそういう知的労働の作業場であって、だからこそわたしたちは卒業論文を学生に要求しつづけたいと思っている。(54ページ)

卒論読みの労苦

対象を疑わしげにみているのであって、そういうふうに対象を突き放して、自分とは異質なものとしてみてやろうと決意している気配なのであって、みえるがままに記述しようと構えている格好なのであって、これはたいへんここちよい。ついに理解しかねて、自分自身の理解のパターンに自信をなくして、八つ当たりしている風情であって、そこにこそ歴史における理解が兆している。それをそうと自覚することなく、いらだちに書く字も歪め、結論することもなく、ふいに文章を断つ。思索の持続がたち切れて、持続した部分が論文として綴られる。そういう文章が、ともかくもないわけではない。そういう期待があればこそ、今年もまた、なん十冊もの卒論読みの労苦に耐えられる。(56ページ)

ある日の講義

 

最近、1年以上をかけて何かの文章を書くことがあったか?ビジネスの中で1年を超えた思索を文章にしたことはない。自ら機会を作らないと1年というまとまった思索と文章を綴るという体験は日常には存在しない。そしてそれはやろうと思えばできることでもある。

堀越氏は大学で史学概論を教えていた。そこでは自分の専門以外の卒論を読む機会も多い。学生の書いた卒論は「たどたとしく記述される思考の道筋は、みんなどこかで見覚えのあるもの。」(54ページ)なのであろう。それでも、あるいはそれだからこそ、読み手である堀越氏に多くのインスピレーションを与えたと思う。

堀越氏の教育者としての経験は、若かりし日の卒論の思い起こすさせると同時に、幾つになっても同じことはできる、と考えさせてくれる。

蛇足

 

今、卒論を書くとしたら何を書けるか、あるいは何を書きたいか?

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