毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

喧嘩両成敗と、”目には目を”に共通するものは何か?~『喧嘩両成敗の誕生』清水克行氏(2006)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

清水氏は日本中世社会史の研究家、世界にも希な奇妙な「法」はなぜ生まれたか?(2006)

 

喧嘩両成敗

中世および近世の日本の法原則の1つ。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則。成文法としては1526年、戦国大名の今川氏の「今川かな目録」8条、「喧嘩におよぶ輩は理非を論ぜず双方とも死罪」が始まりとされる。

ケンカをした両者に対して、その正否を論ぜず同等の処罰をあたえるーという、この法は、しかし考えてみればずいぶん乱暴で没理性的な法である。(4ページ)

中世という時代

室町幕府は)自力救済社会の慣習に準拠するかたちで支配を行おうとする権力であった。そのため、むしろ紛争を抑止する思想は公権力の側からではなく、紛争当事者のなかから生まれることとなった。彼らは「やられた分だけやり返す」ことを正当と考える一方で、「やられた分」以上の「やり返し」を戒め、双方の損害を相殺し等価にすることで紛争の幕引きにしようという素朴な思想を形成していたのである。(196ページ)

近世という時代

近世の公権力は、喧嘩両成敗法の不条理さを認識したうえで、その適用には慎重だったと考えざるを得ない。・・・「両成敗という判決が最初から定められているのであれば、裁判官による判断は必要がなく、そもそもその事件について裁判をすること自体が無意味になる。」…戦国大名にしても、織田・豊臣の統一政権にしても、江戸幕府にしても、あくまで彼らの最終的な目標は喧嘩両成敗などではなく公正な裁判の実現にあった。それにより彼らは、みずからの支配権をより公的なものへと高めることを目指したのである。(177ページ)

目には目を、の本当の意味

 

メソポタミヤハンムラビ法典のなかの有名な一文「目には目を、歯には歯を」は、同害報復を認めた条文として一般にも広く知られている。ところが近年の研究の進展によって、この条文は決して報復を推奨しているわけではなく、受けた損害以上の過剰な報復を相手に加えることを禁ずる意図のもとに定められたものである、という理解がむしろ通説になっている。つまり片目を失った者がその報復として片目以上、つまり相手の両目を傷けたり、まして命を奪うことはあってはならない、あくまで「目には目を」、という意味である。このように、同害報復の原則は、そもそも復讐を正当化する反面、その復讐に一定の制裁を加え、過剰報復を抑止する側面も持っていた。(120ページ)

喧嘩両成敗は権力によって黙認されてきた

 

著者は日本の中世社会の苛烈な騒擾のなかから生まれた自力救済策の一つであると説明する。その背景には極端までに体面を気にする社会、言い換えれば「切れやすい」社会があったという。「中世日本人の激情的で執念深いやっかいな気質」であり、日本人の自己認識である「柔和で穏やかな日本人」とは矛盾するものである。

喧嘩両成敗は幼稚園や小学校の子供時代にも使われ、馴染み深いものである。ハンムラビ法典の解釈から解るように、自力救済における過剰報復の禁止という人類普遍的なメリットがある。

どうして今でも喧嘩両成敗を受け入れているのか?

 

自力救済が禁じられた法治国家である現在においても喧嘩両成敗が語られるのはなぜか?本来判断をすべき公権力が、判断から逃げているという性格はないか?当人同士が意見のぶつかり合いを経て自ら喧嘩両成敗を受け入れるのと、判断すべき公権力が自らの都合で喧嘩両成敗と口にするのでは、大きな違いがある。喧嘩両成敗を成文法化するのは権力の自己矛盾である。

自ら喧嘩両成敗を口にするとき、過剰報復の禁止の為なのか、判断を回避する為なのか、良く考える必要がある。

蛇足

 「柔和で穏やかな日本人」に安住していないか?

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