毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

1860年太平洋横断した咸臨丸はどこで作られたか?~『街道をゆく〈35〉オランダ紀行』司馬遼太郎(1994)

街道をゆく〈35〉オランダ紀行 (朝日文芸文庫)

司馬遼太郎は小説家、 鎖国時代の日本にとって、暗箱にあいた針穴から射しこむほどのかすかな外光がオランダだったと著者はいい、プロテスタント精神の発露たる商業活動が育てた自律的、合理的な国民性をゆく先々で実感する。(1994、単行は1986年)

  

福沢諭吉はtelegraphを知っていた

勝海舟福沢諭吉といったチョンマゲのサムライたいちが、オランダ製の咸臨丸を操って太平洋をわたり、アメリカ西海岸にたどりつくのは安政7年(万延元年=1860)の春のことである。

「電信はある」と福沢諭吉(1835-1901)はその自伝(『福翁自伝』)のなかでいう。・・・咸臨丸渡米のころは、電信が全米の有力な情報手段になっていた。福沢たちは、アメリカ人たちにあちこちひっぱりまわされて、文明の設備を見学させられた。・・・「こっちはちゃんとと知っている。これはテレグラフだ。」(『福翁自伝』)と、福沢は内心おかしかったらしい。Telegraphは、福沢が最初にならった語学であるオランダ語でも、telegraphである。福沢の場合、大坂の緒方洪庵の塾生時代にそれらの原理を知った・・・ともかくもそれはすべてオランダの書物のおかげだった、ということを私はここで言おうとしている。(10ページ)

1602年東インド会社

17世紀前後、オランダでは“アジアの海”からの利益があがるにつれ、当座会社が乱立し、過当競争になった。・・・その結果おこったのが株式会社だったが、具体的に言えば、1602年に設立された株式会社「オランダ東インド会社」のことである。・・・・ほんの少し前までスペインの属邦としてくびかせをつけていた小国が、株式会社をつくることによって地球をわしずかみにするような力を持ち始めたのである。(109ページ)

オランダ商船デ・リーフデ号

「会社」が設立される数年前の1598年、旧会社の一つであるロッテルダム会社から、5隻の船が東洋にむかって派遣されたのである。・・・(そのうちの1隻であるデ・リーフデ号が)1600年4月19日、ついに豊後の臼杵湾に入り込んだ。・・・家康は報せをきいて、大いに関心を示した。かれの幕府はのちに鎖国をするのだが、家康一代は秀吉の貿易政策の延長線上にいて、かれ自身、ヨーロッパにもつよい関心をもっていた。・・・航海士はウィリアム・アダムスという英国人で、無敵艦隊との海戦にも参加した練達者だったが、のちのオランダの会社にやとわれたのである。・・・デ・リーフデ号の奇蹟の漂着によって、オランダ東インド会社は、発足早々に日本を市場として入れることができた。この船の日本史上での重要さは、あらためていうでもない。(114ページ)

どうして咸臨丸はオランダ製だったのか?

1600年以来、オランダはヨーロッパに開かれた窓だった。オランダは日本貿易を独占することで利益を上げ、オランダは日本にヨーロッパの情報をもたらした。ここでいうオランダとは1799年までの間はオランダ東インド会社のことである。

この流れがあり、1855年、江戸幕府は蒸気船咸臨丸をオランダに発注した。結果福沢諭吉らを乗せて太平洋を横断することになる。福沢諭吉はそこで蘭学によって知っていた技術の数々を目にすることになる。鎖国中も、日本の知識人たちは蘭学を通じヨーロッパの知識を得ていた。鎖国によって遅れていた日本、という印象は修正する必要がある。

蛇足

 

日本のモールス信号機の試作は1847年、モールスによる発明後わずか10年だった。

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