超新星の誕生に遭遇したら、何を感じると思いますか?~『星の古記録 』斉藤国治氏(1982)
斉藤氏は天文学の実務家、天文学東西の古い文献には日食・星食・流星・彗星などの数多くの天文記録が載せられているが、複雑な天文学的計算によって当時の状況を再現してみると、それが正確であるかどうかがわかる。(1982)
日本最初の天文台
日本書記巻29によれば、天武天皇4円(675年)正月の条に「陰陽寮」なる名称が初めて表れる。・・・この年正月5日の条に、「始めて占星台を興す」とあるから、わが国に正式に天文の観測台が創設されたのはこの年であった。・・・陰陽寮の主幹業務は天文気象を観測し、また地相を占うことと、編暦と保持・報時の仕事であった、天文生は昼夜交代で天文気色をうかがい、異変を認めたならば直ちに上司に報告する。陰陽師たちは占書によってこれを占い、占文を添えて中務省を通じて内裏へ密奏する。(5ページ)
1934年、アマチュア天文家の発表
(アメリカの一般向け天文雑誌に記事が寄稿された。)これを書いた人は当時神戸市に在住していた射場保昭というアマチュア天文家であった。・・・日本の古い天文史料についての紹介であったが、そのなかに藤原定家の『明月記』中の客星についての記事があり、これが奇しくも欧米の第一線天文学者の注目するところとなった。射場氏のこの記事がきっかけとなって、古代の客星の記録が見直され、現代の天文学研究上の大躍進を遂げる一助となったのである。(75ページ)
明月記と超新星
『明月記』は、鎌倉時代の公家藤原定家の日記。1180~1235年までの56年間にわたり克明に記録した日記。定家は陰陽師から聞いた話として1054年のかに星雲の超新星爆発を記載していた。1928年、ウィルソン山天文台のハッブルはかに星雲の膨張を逆算すると900年前に1点に集まること、つまり超新星爆発を起こしていたと考えていた。超新星の理論と古代の記録が一致していた。
超新星の記録
歴史上およそ1400年にわたって確定できた銀河系内の超新星は7個である。平均200年に1回のわりで表れたことになる。ところで、1604年の最近の出現以来現在まで、やがて400年がたとうとしているのに、さっぱり超新星が出現しない。・・・ある夜、突然天の一隅に、満月の半分くらいの明るさの超新星が表れた。(天文学者ら)彼らは狂喜するであろうか。それともその荘厳さに打たれて恐怖するであろうか(96ページ)
年 | 星座 | 距離 | 最大光度 | 残骸・別名 |
0185年 | けんたうるす/ケンタウルス座 | 3,300光年 | -8 | RCW 86 |
0393年 | さそり座 | -1 | RX J1713.7-3946 ? | |
1006年 | おおかみ座 | 7,200光年 | -9 | |
1054年 | おうし座 | 7,000光年 | -6 | かに星雲 |
1181年 | かしおへや/カシオペヤ座 | > 26,000光年 | 0 | 3C 58 |
1572年 | かしおへや/カシオペヤ座 | 8,000~9,800光年 | -4 | ティコの星 |
1604年 | へびつかい座 | 20,000光年以内 | -2.5 |
ケプラーの星
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明月記と超新星 藤原定家が残した世界に誇る天体記録とは | 京都千年天文街道
超新星が表れたらどう考えるであろうか?
1054年の超新星は、23日間にわたって日中でも見えるほどに輝き、653日間にわたって夜空に見えたと記録されている。かに星雲として知られ、地球からの距離はおよそ7000光年。
我々は現代天文学から超新星の意味を知っている。もしこれらの知識がなかったらどう感じるだろうか?
中国古来の五行説の根本思想によれば、『天にあらわれた異変(天変という)は天帝が地上の為政者(天子)の失政を警告する啓示』(6ページ)となる。知識なしに超新星を見たとき、何らかの変化の前兆と考えても不思議はない。日本でも天文学に1300年の歴史があるのは、為政者が情報を必要としていたからだと理解する。1300年前と今、天変異変への恐怖は何ら変わらない。
蛇足
次の銀河系内の超新星はいつか?
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