毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

「やばい」という表現を使うと「やばい」本当の理由~『感情とは何か: プラトンからアーレントまで 』清水 真木 氏(2014)

感情とは何か: プラトンからアーレントまで (ちくま新書)

清水氏は哲学、哲学史の研究家、怒る、悦ぶ、悲しむ、妬む…。生きていれば、さまざまな「感情」が誰の心にも去来する。だが、その本質は何か。(2014)

藝術作品は事実のコピーではない

 

 

 

実際に起こったことではなく、起こりそうなこと━つまり、蓋然性または必然性の法則に従って可能なこと━を語るのが藝術家の役割である。藝術家と歴史家は韻文で書くか散文で書くかという点に違いがあるのではない。・・・一方(歴史)が実際に起こったことを書き、他方(藝術)が、起こりそうなことを書く点にあるのである。したがって、藝術作品は、歴史よりも哲学的なもの、意義深いものである。(59ページ、アリストテレス詩学』)

 

 

アリストテレスに従うなら、藝術作品というのは、現実の単なるコピーではなく、私たちが現実の生活において出会う事柄の真相を普遍的な仕方で表現したものであり、世界に関する根源的な真理の表現として受け取れねばならないことになります。(59ページ)

 

真理は感情として与えられる

 

 

私たちが藝術作品の享受において快楽を受け取るのは、藝術作品が事柄の真相の表現であり、世界に関する根源的な真理を告げるものであるからに他なりません。藝術作品の享受における快楽は、本質的に知的な快楽なのです。・・・藝術作品が私たちの心に有無出す感情とは、真理の゜であり、感情が真理の記号であるからこそ、藝術作品の与える感情が快楽となると考えるのが自然であるように思われます。・・・感情が根源的な真理の表現であるからこそ、恐怖、憎しみ、悲しみのような「否定的な」感情、現実の生活では何としてでも逃れたいと誰もが願うような感情すら、藝術作品によって惹き起こされたものであるかぎりにおいて、むしろ、これをすすんで引き受けることが可能になるわけです。(70ページ)

 

藝術は本当の感情を気づかせる

 

 

感情は、誰にとっても馴染みのあるもの、平凡なものであるわけではないばかりではなく、むしろ、虚偽意識から区別された本当の感情なるものは、ときに日常生活において、ときには藝術作品の力を借り、特別な努力によって奪い取ることの必要なものであるに違いありません。(244ページ)

 

「妬み」、「やばい」

 

本書では「妬み」と「やばい」という言葉について説明する。自分の感情を「妬み」という一言で表現すると本来備わっている具体的でかつ複数の感情を、「妬み」という社会的に共有された観念(虚偽意識)で誤魔化してしますという。若者言葉の「やばい」も「注意を向けるに値する」もの(10ページ)を指す。この形容詞を使うことで事柄の性質や自分の気持ちに適合する言い回しを工夫する必要がなくなる。一言で言えば何にでも「やばい」で表現できてしまう。

我々は感情と向き合いそこに真実を見出し、その真実を他者と共有できる言葉にして初めて感情を獲得したと言えるのである。「妬み」「やばい」「うざい」などで感情にラべリングをしている限り、動物的な叫び声と何ら変わらない。藝術作品は他人の感情を明らかにすることによって、我々に感情とはどういうものかを教えてくれる。

蛇足

 

感情とは説明できるもの。

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私がみずからの感情を感情として受け止めることが可能になるためには、これを言葉に置き換える作業が必要であること、言葉によって置き換える作業が他人による承認、他人との共有を想定して遂行されるものである・・・すなわち感情、の経験が共通感覚に依存すうrものであるかぎり、感情は、意見を異にする者たちのあいだのオープンな討議と合意形成の場としての公的領域を維持する意欲、「公共性への意志」と呼ぶことのできるような意欲を基礎とするものである(以下りゃ