毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

指点字という言葉を知っていますか?~『ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)』福島智 氏(2015)

ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)

18歳で光と音を失った著者は、絶望の淵からいかにして希望を見出したのか―米国TIME誌が選んだ「アジアの英雄」福島智氏初の人生論。 (2015)

 

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指点字

 

 

ところで、目が見えず、耳も聞こえない私が他の人とどのようにしてコミュニケーションを取るのか不思議に思う人も多いでしょう。それは耳が完全に聞こえなくなった高校二年生の終り頃、1981年の3月、母のふとした思いつきによって解決しました。・・・いつもなら、私からは声で話せても、母からの言葉は点字のタイプライターで紙に点字を書いてもらって点字の筆談で会話を交わすしかありませんでした。ところが、そのときは、たまたま場所が台所だったので、そこには点字タイプライターがなかったのです。そこで母は私の両手を取り、甲を上にして、自分の両手の人指し指と中指、薬指を私の指に重ねて、軽く叩くように押しました。

「 さ と し わ か る か」

 母は私の指を点字のタイプライターのキーに見立てて、そう伝えたのです。・・・このコミュニケーション方法を私と母は「指点字」と名付けました。のちに、この方法は少なくとも公にされたものしては、世界で初めて私が用い始めた新しいコミュニケーション方法だということがわかりました。(23ページ) 

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菜の花や月は東に日は西に

 

 

この俳句には、美しいと言葉もそれに類する表現も一切ありません。それでいて、この短い句で、美しくも壮大な自然のパノラマが、読む人の心に浮びあがってきます。・・・言葉自体は記号であって、それにさほど多くの素晴らしい性能があるわけではありません。言葉をどのようにつなぎ合わせるかという関係性・文脈性が、限られた言葉や語彙を近い、一定のレトリックや文法の制約のもとにあって、無限に豊かなイメージや感動を伝えることができる仕組みの土台になっているのだろうと思います。(93ページ)

 

僕の命は言葉とともにある

 

盲ろう者とは見えず、聞こえない方のこと。福島氏は3歳で右目を、9歳で左目を失明、14歳で右耳を、18歳で左耳を失聴し、光と音の世界を喪失した。福島氏は指点字によって他者とのコミュニケーションを復活させる。コミュニケーションによって言葉=情報を再び得ることで、言葉のもつ意味を深く考えることとなる。言葉の意味は他者との関係性、文脈でしか存在し得ない。

本書のタイトルは「僕の命は言葉とともにある」、これは「僕の命はコミュニケーションとともにある」でもある。光と音を失った極限状態で考えたこと、一つは他者とのかかわりであり、もう一つは極限状態においても常に可能性はある、ということ。

細胞は常に周囲の情報を感知しようとする。もしすべての情報が遮断されたら細胞は存在しえないと思う。人もまた周りとの情報をすべて遮断されたら生きていけないのである。

どうして「菜の花や月は東に日は西に」を読んだとき、美を感じるのか?これを考えることは他者との関係性を考えることでもある。

蛇足

言葉は他者と関係を持つことで力を得る。

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