毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

我々はどうしてアジアという概念を持つに至ったのか?~『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』梅村 直之 氏(2005)

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

梅森氏は日本政治思想史の研究家、ナショナリズム研究の最重要書のひとつである『想像の共同体』を著したベネディクト・アンダーソン。彼が二〇〇五年、早稲田大学で行った二つの講義を収録。(2005)

 

日本人とは

 

 

法律的に言えば、さまざまな偶然の結果、現在日本国籍を取得するに至っている雑多な人々の集合以上のものではない。国籍がそもそも近代的な概念である以上、日本人もまた近代的な発明である、というしかない。だから法律的規定からすれば、国籍という概念が存在しなかった明治以前の時代の日本人について論じることは、アナクロニズム(時代錯誤)でしかないはずだ。・・・(国民をという常識は)僕らに、ずっとずっと昔から(おそらく縄文時代から?)「日本人」がいて、それが今日まで続いてきたことを信じ込ませようとしている。(120ページ:梅森)

 

アジアとは

 

 

アジアというのは、歴史的に古代ギリシャ人が描いた概念です。エーゲ海の向こう側の地域を指す言葉としてアジアで生まれ、その指し示す範囲が徐々に拡大されてゆきました。ヨーロッパ人が東に行くにつれてアジアという考え方も広がってきたというわけです。しかし、この言葉はもともとヨーロッパからの切り口です。いわゆるアジアの人たちがどのように自分たちとアジア人だと考えるようになるかは不思議な問題です。・・・アジア人という概念というのは、知識人のあいだで論議されるものなのです。それはヨーロッパとのコンタクトのなかで出てくる考え方だと思います。(206ページ:アンダーソン)

 

EUという概念

 

 

EUを可能にした重要な要件の一つは、二つの大戦を経験したという事実です。それによって数千万人の人が命を失い、ヨーロッパは本当に疲弊してしまった訳です。その果てに、ようやく国家の枠を超えた共同体の必要性を、人々は本当に骨身にしみて感ずることになたのです。(218ぺージ:アンダーソン)

 

想像の共同体

 

日本、アジア、EU、すべてが「想像の共同体」という概念であると改めて感じる。共同体への参加者は、①長い歴史を持ち、②閉鎖された集団であり、そして③さまざまな偶然の結果である人間の集合を、共通の運命によって結ばれた共同体である、と考える様になっているのである。

我々は日本人である事は常識として受け入れている。それではアジア人と言われて完全には共鳴できないかもしれない。ヨーロッパの人々はEUという概念を受け入れているのかもしれない。

ナショナリズムをどう飼いならすのか、グローバル化とどうつきあうのか、人間の連帯と差異の尊重は、いかにして両立可能となるのか」(185ページ:梅森)

アンダーソンは同じ新聞を共有するのが国民であり、ナショナリズムの基礎となっていると言った。国家を超える概念を持つためは同じ情報を共有、語り合うことが必要である。それをアンダーソンは「多数言語によるコミュニュケーションの重要性」と言った。当たり前過ぎてつまらないが、すべての共同体にとってここがスタートである。

蛇足

 

共に食事をし、語り合う、そこから始まる。

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