毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

自分の手の中にあるものから始める、見切り発車のすヽめ~『進みながら強くなる-欲望道徳論』鹿島 茂(2015)

 進みながら強くなる ――欲望道徳論 (集英社新書)

鹿島茂氏はフランス文学専攻、学問でもビジネスでもパフォーマンスを上げるために完全な準備が整うのを待つのではなく、むしろ未経験の分野への挑戦は見切り発車で始めるからこそ力がつくのだ。(2015)

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見切り発車の「すゝめ」

 

 

人間だれしも、いずれ十分に力を蓄えて強くなったと確信してから進みたいと考えます。しかし、こうした完璧主義でいくと、時間もかかるし、金もかかるのは当然です。それに「よし、十分強くなったから、そろそろ進もうか」と決断する頃には、もう人生は終わってしまっていることが少なくないのです。(4ページ)

 

書評とは時間のかかるもの

 

 

第一、原稿用紙二枚から三枚の中に、イントロと作品の要約を評価および評価の基準をしっかりと入れなければないけませんので、まともな書評を書こうと思ったら、読む以上に時間がかかるのです。・・・書評なんかしていたら、自分の作品を書く時間がなくなってしまうからです、。なんで、自分の作品を犠牲にしてまで他人の作品を読んでやらなきゃいけないんだ、と思うようです。(49ページ)

 

書評は脳髄の活性化を図る

 

ところが1年たち、二年たち、三年たつうちに、あら不思議、本当に「進みながら強くなっていた」のです。必ずしも自分の意志に基づいて選んだわけでもない本でも、書評するためにしっかりと読んで、制限された枚数の中で批評しようとすると、それだけで脳髄が鍛えられ、まるでボディビルのように、脳髄に新しい筋肉がついてきたことがわかったのです。(49ページ)

 

書評とは人評である

 

 

私が本を評価していると考えるからいけないのであって、本の方が私を試練にかけ評価を下していると考えればいい、という「逆転の発想」が浮かんだのである。ひとことで言えば、書評とは、評価する人間のほうが価値を評価される「人評」でもあるのだ。(鹿島氏「歴史の風 書物の帆」あとがきより)

 

 

・・・この確信を得てからというもの、書評というものをすればするほど「進みながら強くなれる」と思い、以後、二十年にわたってこれを実践してきたわけです。(51ページ)

 

本との巡り合い

 

ふと手にとった本により刺激を受ける。本から情報を与えられ、反応する。本の著者が読者を試している。あるいは鍛えてくれている。鹿島氏の文章は本が心を動かす背景を教えてくれる。本という他人が書いた土台がある事からこそ、読者は土台の上に1㎜でも1㎝でも背伸びする事ができるのである。背伸びを実感するから嬉しいく思う。

鹿島氏は自分で選ばない本の書評も書いたという。私は他薦は利用できないので、自分とは関係の薄かった分野の本にも挑戦してきた。物理、生物、アート。これらの分野から多くの刺激を受けた。自分で選び難いからこそ刺激も大きい、というここにも逆転の発想がある。

このブログを読んで頂いている皆さんからもぜひ面白い本を推薦して頂きたいものだと思った。きっともっと世界を広げてくれる。

鹿島氏は書評を20年間( ! )続けてきた。私も本を読み、アウトプットし続けたい。「進みながら強くなる」事を期待して、

蛇足

 

自分の手にあるものを利用する

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