毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

江戸時代の人は「江戸時代」という言葉を使ったか?~『文明探偵の冒険~今は時代の節目なのか』神里 達博 氏(2015)

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

 

科学の限界から歴史の本質まで。この時代が特別な「時代の節目」なのか、あるいはどういう意味で「時代の節目」なのか?(2015)

 

科学は既に地球を覆い尽くし我々は科学から逃れる事ができず、所与の環境として扱わざるを得ないという。科学で「時代の節目」を予測する事はできないと言う。

 

芸術は文明の行き先を見通す

 

 

「芸術は文明を先駆ける」という事実である。アートはしばしば時代の先行指標として機能するから、「時代の節目」の兆しは最初にアートの領域に出現するのだ。

 

 

たとえばルネサンスの精緻な写実主義は近代の曙を告げるものであったし、ロマン主義は近代化の暗礁を予感させた。また印象派の登場は主観の時代到来を、さらに超現実主義は理性の限界を示唆していたように思える。おそらく優れたアーティストは、無意識に時代の変化を感じ取るものであり、また論理や理性、制度や道徳といったものから比較的自由に表現活動を行う志向性と能力を持っている。(151ページ)

 

注)超現実主義とはシュールレアリズムの事

時代を予見する順番、アート→科学→技術→政治

 

 

「科学」の予見力はもう少し鈍いし、現行の社会との関わりの深い「技術」はさらに遅く、現実の重荷を常に背負っている「政治」は、最後の最後に時代に追いつく、という順番かもしれない。(152ページ)

 

江戸時代とい時代はあったか?

 

 

西鶴は江戸時代を生きた人であるが、彼自身は、自らの著書で「江戸時代」などという言葉は使わない。「元禄」という元号はよく使うが、それ以上の時代区分などは意識しているようにみえない。・・・ご承知のとおり、日本史における時代区分は政府の場所に依拠して決めるのが基本である。奈良に都があったから奈良時代、京都の室町に幕府があったから室町時代と呼ぶわけだ。だから今は「東京時代」ということになるが、まだそういう用語を使う人はいない。(229ページ)

 

元禄時代は高度成長期と低成長期の狭間

 

 

大雑把に言えば、16世紀から-つまり政治上の「節目」より早く始まるだけだが-18世紀初期にかけての「高度成長期」、18世紀末までの「停滞期」、そして幕末にかけての「再成長期」に分かれる。・・・17世紀の日本は、戦国時代が終わったことの「平和の配当」を享受する、「列島改造」の世紀であったのだ。この時代の峠にあたるのが「元禄時代」なのである。(232ページ)
どうやって時代の節目を認識するか?

著者は内部からは新時代は存在しない様にみえてある日突然新時代が可視化されると言う。そこには科学的決定論では捉えられない何かが必要なのである。その何かとは「明日は変えられる」という覚悟であろう。時代は先駆けと残滓が共有する。私たち一人一人が時代の参加者として1㎝でも時代を先駆ける事が時代の節目を作る。時代を認識するより自ら先駆ける方が確実である。世界は今も問題を抱えているのだから、、。

蛇足

 

「東京時代」と呼ぶ時がいつ来るか?

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