毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

「自分だけは嬉しい」という何かをやっているか?~クリエーター夏目漱石の処女作「我輩ハ猫デアル」に見る覚悟

書物の近代―メディアの文学史 (ちくま学芸文庫)

紅野紙は近代文学・メディア論の専攻、1999年文庫化

 

f:id:kocho-3:20141119081948p:plain

書物の近代

読書の基底にあるのは、言葉の音と形を、舌・目・耳・手でモノとして感じとめながら、同時にそれに呼応して想像の世界においてもう一つの身体が未知の時間と空間とをなぞり、モノとして受け止めることである。(9ページ)

書物はそれ(新聞メディア)に対して、速度をゆるめることを通じて、情報を伝達目的から容量の大きい記憶の蓄積へと転換する役割を帯びる。(31ページ)

 

1905年「吾輩ハ猫デアル」が単行本として初出版

上篇刊行にさいして、高い評価を獲得したのは、内容のみならず、書物としての形式でもあった。のちに書物研究家・斎藤昌三は「内容にも無論読書会を驚嘆させたが、装釘の斬新さに於は更に驚愕を新たにさせた」と証言しいている(以下略、81ページ)

 

漱石自らアレンジした装釘

f:id:kocho-3:20141119082203p:plain

 

小口は金色仕上げ、ブックカバーは毛糸のくずを漉き込んだラシャ紙、そして何とアンカット(雑誌の付録の様に16ページずつ袋とじになっていた)、挿絵もまた漱石が選んだ画家が手がけていた。文京の古本屋:文の京散歩

 

こうして美術的な価値、商品としての価格の妥当性に関しても、書物としての「猫」はそれまでの書物をめぐる固定観念に揺さぶりをかけるようにして登場したのである。(85ページ)

 

自己本位~自分丈は嬉しい

漱石は上篇序において、いったん雑誌に発表されたものを改めて単行本化する経緯について「ただ自分の書いたものが自分の思うような体裁で世の中に出るのは、内容の如何に関わらず、自分丈は嬉しい感じがする。自分の対してはこの事実が出版を促すに十分な動機である。」と。この反復される「自分」は他の外圧を排して書物全体を統括しようとする「自己本位」の製作動機を語っている。出版業者との関係の中で差配され、著作の署名者であるにも関わらず、相対的な位置しか占めることに出来なかったこれまでの書き手に比して、夏目金之助漱石となったとき、貫かれたのはまずこの「自分丈は嬉しい」という個人の感覚・倫理であった(86ページ)

漱石の覚悟

「吾輩ハ猫デアルの装釘」に漱石の「自己本位」の覚悟を見出す。漱石は「売れなくても綺麗な本は愉快だ」と自己本位を表現する事に徹した。それが日本に小説家という地位、単行本というモノ、最終的には近代小説の誕生を生むことになった。誰から頼まれた訳でもなく、ただ「自分丈は嬉しい」の為に。

蛇足

何か「自分丈に嬉しい」事をやっているか?

こちらもどうぞ

 

ちょうど100年前、夏目漱石は熱く「クリエーター宣言」を語っていた~「私の個人主義」 - 毎日1冊、こちょ!の書評ブログ