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2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

私鉄から地下鉄に乗り換える日常はいつ誕生したか?~東横線と副都心線の相互乗り入れの源流は100年前

鉄道王たちの近現代史 (イースト新書)

 2013年東急東横線と地下鉄副都心線の相互乗り入れが開始された。都心はJRと地下鉄、山手線の外は私鉄という当たり前の風景はいつできたか?

2014年8月発行

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 鉄道王

私鉄経営者は鉄道本来の”乗客を運ぶ”サービス以外にも創意工夫を重ねて、”稼ぐ手段”を探ってきた。そのため、鉄道経営者は実業界や財界に信じられないほど大きな影響を与えた。時に政治をも左右し、市民の知らない所で社会に関与し、私たちの性格スタイルをも変えてきた鉄道経営者は、まさに”鉄道王”だったのである。

1907年小林一三箕面有馬電気軌道小林の専務就任

農村で人口が少ないデメリットを逆手に取り、小林は沿線の田畑を買収する。そして買収したと田畑を住宅地として開発していった。住宅販売の売上は鉄道経営を支えた。また同時に沿線に住むサラリーマンが箕面有馬電気軌道に乗って梅田駅まで通うようになって運賃収入も増加する。それまで鉄道は運賃で稼ぐのがビジネスモデルだった。そうした常識を打ち破り、小林は副収入という新しいインカムの道を切り開いたのである。小林が編み出したビジネスモデルはほかの鉄道に模倣される。小林は阪急グループの創始者だが、会社という枠組みを超えた鉄道愛で他社にも積極的に経営指導にあたっている。(67ページ)

1918年渋沢栄一田園都市株式会社を設立

渋沢は田園調布の邸宅購入をサラリーマンに想定していた。しかし、ターゲットとなるサラリーマンは丸の内や大手町といったオフィス街に務める人たちだった。そこで渋沢は田園調布に鉄道を計画する。その構想によって敷設された鉄道が現在の東京急行電鉄(東急)にあたるわけだが、田園都市株式会社には鉄道の専門家がいなかった、・・・田園調布の弱点を補うべく、渋沢が目をつけたのが、関西でも名を馳せていた小林一三だった。(121ページ)

私鉄という日常風景

山手線内はJRと地下鉄、山手線の外は私鉄。私鉄の部分を担った”鉄道王”は小林一三が確立した。渋沢栄一の求めに従って、田園都市株式会社の経営を小林一三は、「名前を出さず、報酬も受け取らす、日曜日のみ、という約束で引き受けた、」と言われている。日本の関西と関東の都心の日常を決めたのは一人の鉄道王に行き着く。

鉄道王

小林一三を第一世代とすれば、五島慶太堤康次郎正力松太郎、などが第二世代に当たるのかもしれない。著者は魑魅魍魎の中で生き抜いてきた第二世代の”鉄道王”の時代も終わっている。私鉄のある風景が当たり前になったのはわずか100年余り前である。そして現在の優等生の私鉄のイメージとは必ずしも一致しない、”鉄道王”達の事業意欲がスタートだった。

蛇足

1950年,京急と都営浅草線が始めての地下鉄と私鉄の相互乗り入れ

 

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