毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

今更聞けない、「ニワトリが先か、卵が先か?」~弁証法のアプローチ

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)

本書は1968年初版発行、手元は第46版!(1994年)

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精神が先か、物質が先か?

 

ニワトリが先か、タマゴが先か?

トリはタマゴを生むもの、タマゴからトリが生まれるもの、と一面的な真理を固定して形而上学的にとりあげるかぎり、グルグルまわりをするだけで答が出てきません。だから難問とされているのです。トリもタマゴも、永遠の昔から存在しているわけではなく、生物の進化のある段階であらわれたものですから。この全生物という大きな視点で見ると簡単に答がでます。まずタマゴと呼ばれるものが表れ、タマゴを生むいろいろな動物があらわれて、その後でトリが表れたのです。(289ページ)

親か子か?

誰でも子を持って初めて父になります。実子であろうと養子であろうと、子がなくては父になれません。これは媒介関係です。そしてこの父は、またその父(祖父)の子であるという意味で同時に子でもあります。彼自身対立した二面を持ち、父と子の直接の統一でもあります。(278ページ)

弁証法とは?

「ニワトリが先かタマゴが先か」、「親か子か?」を弁証法のロジックによって解釈した事になる。弁証法とは「二つの相容れない意見を戦わせるという形で、矛盾を克服する事によって心理に到達する技術」の事。簡単に言えばYesとNoの意見をお互い出し合って正解に結びつく事。

一般名詞と固有名詞の混在~矛盾の存在

ニワトリとタマゴを一般名詞として考えれば上記の通りになり、「このタマゴ」という固有名詞で捉えればニワトリが先になる。そもそも矛盾する事は単語のステータスを混同して比較する事によって生じる事が良くわかる。Aという人間とBという別の人間の関係だけに着目すれば、親子か、子親か、親でも子でもない、排他的に決定される。ここにCという人間を登場させれば一人の人間が親と子という「役割」を同時に充足している事になる。親子の単語を「生物学的」に捉えるか、「役割」として捉えるかの差が発生してくる。

唯物論と観念論

本書は「弁証法も、科学であろうとする限りやはり唯物論の立場に立たなければなりません。」(36ページ)を前提として、唯物論弁証法を前提として論理が進められている。それが故に観念論の存在もまた否定できないる事を体感する。我々が一般的に、科学的なアプローチが正しいと考えた時、それは唯物論的アプローチである事に気づく。

蛇足

ニワトリとタマゴ、唯物論と観念論、同じ構造。