毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

経済成長が先か、エネルギー消費の拡大が先か~原因と結果を逆さまに見てみる 書評「無知の壁」

無知の壁 (サンガ新書)

 本書は震災直後の2011年5月の講演の対談がベース。2014年10月発刊

「自我とは五感からの情報が統合された錯覚である」とのテーマでの鼎談f:id:kocho-3:20141008083619p:plain

 

第五章 信仰より知恵」の養老氏のエネルギーに関する部分から引用する。

 

20世紀は石油の時代

私はむしろ、地震が起こるまいが、前から思っていたことがあるのです。一つはエネルギー問題ですね。・・・これについては、私の勝手な個人的な意見を申し上げますけれども、少なくとも20世紀というのは石油を存分に使ってきた文明が強かったのです。アメリカが典型的です。おそらく歴史家は、20世紀というのは石油という非常に有利なエネルギー、地球が何億年かけて作ってきたものを百年で使ってしまった時代であるというふうに書くのではないかと思うのです。(168ページ)

経済成長は石油がもたらした

私が前から申し上げているのは、いったい人はどれくらいエネルギーがいるんだろうということなんです。しかも日本の場合、経済成長とエネルギー消費の増加はまったく同じですから、「エネルギーを3%増やせば、経済が3%成長する」というバカみたいな話なんです。それだけのことなんですよ。それを成長と言ってきたのです。つまり、エネルギーを使えば、皆さん方はいい生活ができ、景気が良くなるんです。そこで、私が申し上げたいのは、実は人間の力は入っているか、という事なんです。根本的には入っていないだろうということなんです。ですから我々がよいものとしとして近代とか文明とか秩序とか、いろいろなことで言ってきたことは、実は石油であって人間ではないのではないか、ということです。(169ページ)

日本の名目GDP経済成長とエネルギー単位価格の推移

 f:id:kocho-3:20141008073725p:plain

大谷 正幸氏(金沢工芸大学准教授)サイトよりhttp://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~momo/education2.htm#I3

名目GDP/一次エネルギー総供給量 ∝ 単位エネルギー当りの米価

⇒ 名目GDP ∝ 単位エネルギー当りの米価 × 一次エネルギー総供給量

長期的な傾向として言えることは、名目上の経済規模とは、およそ単位エネルギーあたりの生存コスト(米価)というファクターを介して貨幣単位に変換されたエネルギー供給量の推移とみなすことができるということだろう。

 

経済成長が先か、エネルギー消費の拡大が先か?

私は今まで経済規模が大きくなるからエネルギー消費量が増えると認識してきた。原因と結果を逆にして、エネルギー消費量が増えると経済規模が大きくなるとも表現できる。

エネルギー投入の増加によって経済効率を高められる発展途上国は豊かな生活を享受できるし、それを望む事も当然である。エネルギー投入増加により人口も増加するであろう。一方低成長に移行した先進諸国においてエネルギー消費量を増やして得られる幸福は残されているのであろうか?エネルギー消費の拡大が本当にやりたい事なのか、。

それがやりたい事であれば我々はとっくにやっている。例えば我々は自動車が一人1台となり、皆が自家用飛行機を所有する時代を本当に欲しているのであろうか?

 

養老氏は石油の枯渇という事を前提にしている。私はあくまで個人的な直感として、石油、天然ガスなど、億年単位で蓄積された化石燃料が100年単位のオーダーで枯渇するとは思っていない。

それでも養老氏は「(石油を使って)どこまで楽をすれば気が済むの?」という問いを深く受け止める。経済成長を主語に置く認識は、自我の集合、の錯覚なのかもしれない。

蛇足

「原因と結果」と捉えるものを逆に思考してみる。