毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

身体論の持つ意味とは?~分子生物学が物理と生命の垣根を取り払った現代において

身体論 東洋的心身論と現代 (講談社学術文庫)“心”と“身体”―デカルト以来の近代西洋哲学が幾度となく究明を試みたその問題は、東洋思想の照明を受けつつ、今日最もヴィヴィッドな課題として我々の前にあらわれている。

 近代ヨーロッパのアプローチ

近代ヨーロッパの学問は、ニュートン物理学に代表されるような自然科学の革新から始まった。・・・近代の哲学は、科学の発展に伴って次第にその守備範囲を縮小してきた・・・今日では、物理岩礁や心理現象の研究も哲学者の手から科学者に奪われてしまった。哲学に残された仕事は、論理学か、科学に解明できない主体的実存の問題ぐらいになってしまったのである。要するに、近代ヨーロッパの学問史の主な特徴は、科学のたえざる発展と哲学の徐々たる後退にあるともいえよう。(328ページ)

 客観主義的態度と学問の関係 

近代科学の客観主義的態度は物質現象を研究する物理学の研究方法によって確立された。近代の生物学や医学は、この態度を物理現象の研究から生命現象にまで拡張した。さらに行動主義から出発する正統心理主義は、心理現象を支配するメカニズムをも客観化し数量化しようとする。・・・図の左側の上昇する矢印は、自然界(物理現象の領域)から生物界(生命現象の領域)を経て精神界(心理現象)に至る。(331ページ)

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分子生物学はBの境界を取り払い、条件反射理論はAの境界を弱めた。Cは深層心理学に当たる。

 

 

 東洋の身体論

東洋には「心身一如」という言葉がある。これは中世日本の有名な禅僧栄西が用いた言葉で、禅の瞑想における内的経験の昂揚した状態を表している。この句はまた、日本の舞台芸術(たとえば能楽)とか武術(たとえば柔道、剣術)などでも、しばしば用いられている。言いかえれば、心身一如とは、内面的瞑想と、外面的行動の両者が向かう理想的境地なのである。(19ページ)

東洋思想は自己の魂をどのように導くかという実践的課題

東洋の形而上学(けいじょうがく)がまず問題にしたのは、「内なる自然」としての肉体の中に埋もれた人間の「魂」のあり方であった。そしてそれを心身の一体性に基づいて追求してゆくのが、東洋の形而上学の出発点であったのである。(100ページ)

 東洋的アプローチは内に降りる右側の矢印

著者は東洋的アプローチは肉体に埋もれた自己を見つめる事、が内に降りていく動き、であるという。そしてそれは西洋的アプローチで言えば「深層心理学が人間の自我意識の基礎にある無意識の領域を探求する」(335ページ)に該当すると主張する。西洋と東洋で人間が生物として違う訳ではない。本書英語版への訳者トーマス・P・カスリス氏は「人は正しい決定を下す為に、どのようにして(深層心理である)暗い意識を訓練するのであろうか?」、「(暗い意識による)習慣を変える様に(明るい)意識的努力をしたかどうか」という表現で東洋的身体論と西洋的二元論の調和を例える。

蛇足

修行とは深層心理を書き換える訓練