毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

聖書の創世記に基づいて、世界の歴史は6,000年と想像してみる~現代のキリスト教を理解する為に

聖書男(バイブルマン)  現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

 

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髭をそってはならない、という戒律を守る!

旅の目的は究極の聖書的生活を送ること。より正確にいとう、聖書の教えにできるだけ忠実に活きること。十戒に従い、産んで増え、隣人を愛し、収入の十分の一を神に捧げる。それだけでなく、ほとんど顧みられないようなきまりもまもる、混紡の服は着ない。姦淫の罪を犯した者を石打ちにする。もちろん、ひげの両端はそらない。(22ページ)

創造論とは(Wiki)

宇宙や生命などの起源を創世記に書かれた「創造主なる神」に求める考え方であり、「創造主なる神」によって天地万物の全てが創造されたとする様々な議論のことである。1517年のプロテスタント宗教改革は、中世のローマ教会が聖書の字義通りの意味を軽視していると考えたために、字句どおり聖書を読むことを強調した。マルティン・ルター天地創造が文字通り6日間で6000年前ほどになされたと主張した。

 

著者のAJジェイコブズ氏はユダヤ系の不可知論者(神は存在しないという立場)。著者は進化論を受容しないなど米国でも批判の多い極端な創造論=極端な聖書字義解釈主義者に会いに行き創造論の思考実験を行う。

 

創造論についての思考実験

地球はたかだか数千年前にできたのであと自分に言い聞かせるのだ。これが実に面白い、まず気付いたのは、まわりとの連帯感が増したこと。地球上に住むすべての人がアダムとエバの子孫だとしたら、“人間家族”は単なる心の糧じゃない、真実だ。(中略)地球が6千歳なら、この世界で僕の人生の占める割合が大きくなる、生命という映画の中で、端役ではなく、台詞のある役を貰った事になる。この思考実験で、聖書を読んで感じていたジレンマの正体がはっきりした。聖書はこのうえなく謙虚であれと説いている。人は罪深く、神に祈るに値しない。それでいてある種の奢りというか、誇りもある。人は聖書における創造物の頂点にある、神が6日目の終わりまでとっておいたもの、動物や自然よりもずっと上位にある生き物。我々は神に似せてつくられた(17世紀の哲学者スピノザが言ったように、三角形が思考できるなら彼らの神はまさしく三角形だろう。)(391ページ)

 神のものは神に返しなさい

聖書学者によれば、二つのテーマが聖書を貫いている。現状維持と解放だ。現状維持の箇所は、世俗の指導者を支持する様にいっている。神が我々の上に立つものを氏名したのだから、疑問を抱いてはいけないし、中傷をしてもいけない。(あなたの民の中の代表者を呪ってはならない。)解放の箇所では、圧政の軛を断ちファラオやそれに相当するものから逃れるよう、神の民にいっている。神は代表者ではなく、民とともにある、と。(515ページより再構成)

 

キリスト教が如何に解釈されているか?

聖書字義解釈主義の立場からは神の絶対性、人間の原罪、そして人間の特権的地位が規定される。一方著者が引用したスピノザの神は汎神論の神であり、創造主ではない。西洋文化圏では舞台と文脈によって「創造主としての神」と「スピノザの神」という両極端の中から選択されて表現されているというフレームワークに気付く。そして聖書の中にも現状維持と解放という対立する概念が取り込まれている。

 

著者は1年間の聖書に則して生活する経験を通じて感謝する事の重要性を認識したという、何に感謝するか?それは「この瞬間を大切にするんだ」という注意喚起を越えて、「神または自然の摂理」に感謝する事に価値を見いだしたと記す。これが不可知論者としてのキリスト教の解釈なのかもしれない。

蛇足

現代の宗教学者はひげを剃らないのは、当時異民族と区別する以外の根拠を見いだしていない。