毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

我々の政治体制「議会制民主主義」は常に正しい、と思い込んでいないか?~民主主義は進化できる。

来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題 (幻冬舎新書)

國分氏はスピノザを研究する政治哲学者。

「2013年5月、東京都初の住民直接請求による住民投票が、小平市で行われた。結果は投票率が五〇%に達しなかったため不成立。半世紀も前に作られた道路計画を見直してほしいという住民の声が、行政に届かない。」

國分氏は小平市の道路問題に関与した経験から、主権者が公的に行政に関わる仕組みが少なすぎる、という事の論理的な説明を行っている。この政治ロジックに焦点を当てる。

我々は民主主義に住んでいる

私達が生きるこの社会の政治精度は、「民主主義」といわれている。民主主義とはつまり、民衆が自分たちで自分達を支配し、統治する事を言う。ここから一般に民主主義は、民衆が主権を有し、またこれを行使する政治体制として定義される。(11ページ)

現代は議会制民主主義

主権者たる私たちが実際に行っているのは、数年に一度、議会に代議士を送り込むという事である。つまり「民主主義」といっても、私たちに許されているのは、概ね、選挙を介して議会に関わる事だけである。

立法府=議会こそがすべての最終的な決定機関~ルソー「社会契約論」

ルソーは、「社会契約論」の中で主権の行使とは主権者たる者のもつ「意志」の表明に他ならず、そうして表明されたものが法律になると明確に述べている。主権とは、その根幹にある、法律を制定する権力。すなわち立法権だというのがルソーの明確な主張である。その他の権利はこの立法権に従属するものにすぎないのだ。

こうして私たちがよく知る議会制民主主義が生まれた。各国がルソーの著作を読んで政治体制を組み立てたわけではないにせよ、議会制民主主義の根幹にあるのはこの様な考えである。(129ページ

 

ルソーの一般意志についてはこちら、

成功する為に必要な事、「見えない鎖」を意識する事~資本主義を生き抜く為に18世紀の思想を使う - kocho-3の日記

 

行政がすべてを決めているのに民主主義といわれる社会

立法府が統治に関して決定を下しているというのは建前に過ぎず。実際には行政期間こそが決定を下している。ところが、現在の民主主義はこの誤った建前のもとに構想されているため、民衆は(部分的にとはいえ)関わることができるけれども、行政権力にはほとんど関わる事が出来ない。それでも「民主主義」と言われるのは、行政機関は決められたことを実行していく執行機関に過ぎないと、つまりそこには民衆が関わる必要などないと考えられているからだ。(17ページ)

國分氏の主張~議会制民主主義だけでは不十分

議会制民主主義が達成されても社会はまだまだ十分に民主的ではないのだから立法権に加え、行政権にも民衆=主権者がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと。これによって近代政治哲学がつくり上げてきた政治論理の欠陥を補うことができる。(18ページおよび199ページより再構成)

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朝日新聞デジタル:住民らアピール懸命 東京・小平市住民投票、26日投票 - 東京 - 地域

スーツでびしっと決めて毎朝毎晩同じ場所に立つ(だけ)。(都市部には「市民運動」に対するアレルギー)

 

Kochoの考えた事

我々は完成された議会制民主主義に住んでいる、と思っていないか?議会制の意思決定プロセスの不合理性は認識しても、行政執行に関する主権の反映については議論をされてこなかった。我々は、主権者たる我々の持つ意志(ルソーの一般意志)、役所や官僚との間で利害が一致しない事を知っている。「お役所仕事」という言葉がその一つの表現であろう。お役所仕事が存在する事は議会制民主主義が完璧ではない事の一つの証であり、民主主義は行政に民意を反映させるシステムを追加する方向で修正、進化されていくべきであるという当たり前の事を自覚する。そして行政に主権の意志を反映させる論理・制度は未だ定まっていない。

蛇足

「来るべき民主主義」は「議会および行政民主主義」とでも呼ばれる事になるのだろうか。