毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

不毛な論争に捕まらない為に~クラス理論を使って冷静になる

ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 (975)) 三浦氏は分析哲学の研究家、小説家。

 
本書は簡単なクイズから始める~どちらの文が真か?

Aこの犬は吠える

B犬は吠える

 

Aは真でありBは真ではない

犬が普通名詞であることに注意しよう。つまり種名であり、ここでは犬という動物種を指している。動物種とは、個々の犬を含む抽象的な全体である。つまり、個々の犬を要素とする集合であり、「犬であること」という属性である。

犬は、吠えるは文字通りにとると適確な文ではない。なぜなら、「犬」も「吠える」もともに、個々の犬固体よりに一タイプ上の集合(属性)であり、お互いに同じタイプにある。

タイプ理論により「犬は吠える」は無意味な文である。タイプ理論では、主語が指すものより一タイプ高層のものを述語は指していなければならないのに、「犬は吠える」は同タイプのものを主述関係で結びつけているからだ。こうして、「犬は吠える」は真でもなければ偽ですらない、非文法的で無意味な文章なのである。(101ページ)

 

クイズを展開する 

Cこの犬は存在する

D犬は存在する

 

Dは真でありCは真ではない。

Aは無意味だ。「この犬は存在しない」も無意味だ。「存在する」という概念を適用するタイプが間違っているからである。「この犬」のような個体ではなく、一タイプ上の、「犬という属性」「犬の集合」に適用されねばならないのだ。「存在する(しない)」は述語ではなく、述語が満たす条件だということがこれでわかった。(131ページ)

 

文章をより日常的な言語で補足してみる

Aこの犬は吠える。→この特定の犬は「吠える」という集合に含まれている。

B犬は吠える→犬という概念に当てはまる集合と、吠えるという集合は同じクラスなので意味をなさない。吠えるという概念を一つ上の集合、例えば「犬は哺乳類である」と置き換えれば意味をなす。

Cこの犬は存在する。→この特定の犬の特徴の一つは存在することである。「存在する」はこの特定の犬を説明する為の「実際に存在し、黒い、ダックスフント、オス、、」など確定記述の一つである。

D犬は存在する。→犬という概念の集合は「存在する」という概念が適用できる。

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Kochoの考えた事~タイプ理論の日常生活における意味

「タイプ理論では、この世にあるものをすべて階層にわける。」(55ページ)、そして同じタイプの階層同士を本質的な意味で比較はできないということ。カレーライスとラーメン、絶対的な基準は存在しない。我々が日常感じる意見の衝突は同じタイプのもので自己の正当性を主張している事だと捉えられる。カレーライスとラーメン、の上のタイプは例えば「定食屋さんのメニュー」。お互い「定食屋さんのメニューからチョイスする事」には同意している。

蛇足

私は「人間で、今存在していて、日本に住んでいて、男性で、甘いものが好きで、、、、、、、」で記述される。