毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

横浜は1859年、わずか3カ月で急造した街だった~圧倒的な成果をあげた非常識な戦略

 オールコックの江戸―初代英国公使が見た幕末日本 (中公新書)

佐野氏は国際機関に勤務、2003年の刊行「 一九世紀半ば、江戸‐ロンドン間の文書のやりとりに蒸気船で半年近くを要した時代、一人の外交官が担う責任は、今日とは比較にならないほど大きかった。そんな時代、日英関係の仕事は、初代駐日公使ラザフォード・オールコックの手に完全に託されていたといってよい。」

18597月1日つくり上げられた横浜

横浜開港は、条約上の開港期日までちょうど3カ月を残した(1859年)4月1日、ついに幕府の正式決定となり、ここから、夜を日についでの突貫作業が開始される、(幕府の外国奉行であった)水野、村垣、堀の3名は、かねてから準備をしていた建設計画を至急、勘定奉行らと協議し、早くも4月7日には現場での作業に着手、村垣は泊り込んで指揮にあたった。運上所を中心とした環境概、道路や橋、船着場、商店の軒が連なる町並みが、何もなかった海岸に次々と形を表す。同時に日本各地から商人の移住を奨励した。(中略)いったん対外関係に踏み込んだからには、決して相手方におたおたする所をみられまい、約束の7月1日には何食わぬ顔で新しい町に向かいいれ、目に物見せてくれと言いたげな、前線に立つエリート幕吏たちの誇りでもある。(90ページ)

 

諸外国との条約で開国すると明記したのは神奈川

神奈川は、古くから栄えた東海道の宿場町で、ちょうど東禅寺の膝元の品川の宿と同じように、街道沿いに旅籠や茶屋が立ち並び、人馬の往来が絶える事はない。現在の京浜急行神奈川駅周辺である。(中略)日英就航通商条約で開港が定められた三港のなかでも、長崎、函館に比して、江戸にごく近く幹線道に沿ったこの神奈川こそが、将来の最も重要な貿易拠点と想定されていたのは当然である。(74ページ)

 

居留地を「日本と」切り離したかった理由①攘夷波との分断

 攘夷派の武士が外国人と往来で遭遇した場合に引き起こしかねない事件を未然に避けるため、どうしても神奈川開港を回避しなくてはならないというのは事実であった。但し、外国人を攻撃しようとする者たちの本当のターゲットは外国人というより、むしろ幕府そのものであったと言えよう。幕府に打撃を与えようとすれば、対外関係に傷をつけるのが最も効果的であった。(103ページ)

居留地を「日本と」切り離したかった理由②居留地不平等条約を体現した空間

居留地という場所は、新しい文物があふれ、建物も衣装も華やかな色彩に彩られた方面上のイメージとは裏腹に、時がたつほど、経済の実験はすべて(外国人)居留地に奪われ、日本側には彼らに対する法的な管轄権もなく、ついには各国の軍隊まで駐留するという、一独立国の姿として相当深刻な自体が、現実に進行していく場所であった。要は、いわゆる不平等条約の何たるかを体現する空間であった。(101ページから再構成)

 

横浜は自然の出島だった

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Digitale Sammlungen der Staatsbibliothek zu Berlin: Werkansicht

筆者はオールコックの著書から「丘と水路に囲まれた実質的に(長崎の)出島と同様の環境を作り出している地形、宿場町のある幹線道路から遠く外れ、入るにも出るにも役所の目から丸見えの、むき出しの通路を通らなければ内陸の往来と接する事のできない、この構造は何としたことか。」と引用する。(77ページ)

 

 

 

当時の幕府の最上位の目標は「幕府が気が進まないながらも開国に応じたのは、日本には明らかに欧米列強と戦火を交えるだけの軍事力がなく、何としても実践を回避する必要があった」。幕府はこの目的の最適化の為に横浜を作った。既存の街、神奈川ではなく、自分のルールに従って横浜の街を作った。条約に新しい街では駄目とは書いていない、それは普通想定しない非常識だから。

 

蛇足

 相手より高い次元で考える、それは非常識であり、成功する戦略。