毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

明治期の資本主義を牽引した主役は製糸産業、製糸産業の主役は富岡製糸場なのか?

 

日本の産業革命――日清・日露戦争から考える (講談社学術文庫)

石井氏は産業史の研究家。「紡績、鉄道、鉱山、製鉄、そして金融。明治の国家目標「殖産興業」は、なぜ「強兵」へと転換したのか。」

 

本書の製糸業に関する記述から産業革命を考える。 

 

製糸業にみる企業勃興

(現在の長野県岡谷市の)勤勉な農家であった片倉市助が二人の息子とともに「女工」が操る繰糸粋の回転を、歯車で加速するという上州式座繰器を10台揃えた製糸場を開設したのは、1873年のことであった。まもなく家督を継いだ長男兼太郎は、78年、弟光治とともに32台の製糸器械を備えた製糸場を開設した。(中略)その後片倉はアメリカ向けの均一大量な「普通糸」(織物の横糸)生産に専念して規模を拡張し、1900年代には世界最大の製糸家になる。そして1910年代以降になると、片倉組は一代交雑蚕種の配布と、御法川式多繰糸機の採用を通じして、「優等糸」(織物の縦糸)や靴下様高級糸の生産に転換していった。(54ページ)

 

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御法川式低速多条繰糸機

 

1943年官営富岡製糸工場を三井、原合名会社を経て1943年片倉が経営権を取得する事になる。

 

製糸業の産業競争力とその特徴

日本生糸の輸出量は、1905年にイタリアの生産量を、09年に中国のの輸出量をそれぞれ凌駕し、日本は世界最大の生糸輸出国となった。アメリカ合衆国へ輸出されたイタリア生糸の単価を100とすると、日本生糸の単価は1894-1896年当時の65から、1904-06年には94へと上昇・接近しており、この間56から75へと逓増しただけの中国生糸の単価を引き離していた。このことは、日本製糸業が量的拡大を遂げただけでなく、質的にも発展し、郡是製糸(後のグンゼ)に代表される一群の製糸家たちがイタリア生糸に匹敵する高級糸をも生産し始めた事の結果であった。日本の製糸業の特徴は、多数の製糸場が誕生しては廃業するとおいう浮沈を繰り返すなかから、長野県を中心にひときわ巨大な製糸企業は幾つも誕生し、それらが全国各地に製糸場を開設・経営する様になった事である。(162ページ)

 

製糸業の資本主義的構造

 地主制下の農村からの出稼ぎ「女工」を長時間働かせ、各地から極力安値で仕入れた繭を生糸に加工させた事、その生糸を横浜の売込問屋と内外の貿易商社を介してアメリカ市場へ販売して得た利益のほとんどを、工場設備の拡張に投入したこと、この二つがその理由であった。(164ページ)

 

当時は外資規制

 

鉱山や工場への直接投資を禁止したのは、巨大な資力と治外法権を持つ外国人の内地侵入を認めると、日本人労働者や資本家が抑圧され、、(中略)日本商人と競合する恐れがあった為である。(43ページ)

 

日本政府は、当時の国際的常識に逆らい、外資の導入を禁止する自力建設の路線を選択したが、それは幕末以来の攘夷精神が、帝国主義化しつつある欧米列強の外圧に過剰反応した結果であったといってよい。(272ページ)

 

製糸業の発展からわかる事

 

製糸業の発展を見ると、そこには民間企業の技術革新を伴った経営努力が鍵であった。富岡製糸場が経営・技術の面から圧倒的に先頭を走っていたとは言えない。政府の役割は資本主義制度の確立、外資規制など背景を整備する事であった。主役はあくまで民間企業、アントレプレナーであったと言える。現代的な視野で捉えれば産業の高度化に成功したアジアの国々と日本、そこには本質的な差はない。アジアの国々で明治の製糸産業の様な過程を通ってテイクオフしていった事はしごく当然であると巻考えるべき。

 

蛇足

 日本にだけアントレプレナーがいる論理的整合性はない。