毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

見る事は確実な行為なのか?~100年前のポートレート写真より

 見るということ (ちくま学芸文庫)

 すべての芸術は生の文脈とのかかわりを持つ―写真が発明されて以来、人間はさらに多くの膨大なイメージに取り囲まれてきた。そこでは、「見る」という行為が人間にとって不可避な事態として浮かび上がってくる。それは自らの生の経験の蓄積を、歴史・社会・文化と構造的に対峙させることでもあった。

 

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 週末にダンスホールに踊りにいこうとしている三人の若い農夫達 1914年アウグスト・サンダー

 

 

 

ザンダーの写真はザンダーが見えたものを写している

 

(ザンダーが撮ったポートレートの)写真は歴史の一面を記録するのだと、ザンダーは簡明に語ったのだろうか。被写体の表す虚栄や内気さ、そうしたことは歴史においては排除されるのだと、ザンダーは言明したのか。それゆえに被写体は、奇妙な歴史的時制を身につけ、レンズを見詰めたのだろうか。すなわち「私はこう見えた」と。

 

 

 

ザンダーが見たものは「階級」

 

時は1914年。ヨーロッパの田舎でこのようなスーツが出回り初めてせいぜい二世代目に、この三人の若者は属しているのであろう。

 

いかなる想像力を駆使しても、彼らの身体が中産階級や支配階級のものだとは思えない。(中略)なぜ彼らの階級が明白なのか?

 

 

 

スーツが野獣のような肉体を強調

 

この写真は実生活においてよりも鮮やかになぜスーツはスーツを来ている人たちの属する社会階級を偽ることなく表し強調するのか、その根本的な理由を明らかにしている。

 

 

 

踊りにいこうとしている三人の路上での写真に戻ってみよう。彼らの手は大きすぎ、身体はやせすぎで、足は短すぎる。顔を隠して、(服を着た身体だけを考える)実験をしたら、私たちは粗野でぎこちなく野獣のような肉体を見ている。

 

 

 

スーツは彼らの姿をゆがめている

 

スーツは19世紀のヨーロッパで、職業的支配階級の衣服として発達した。会議のテーブルにつき管理をする人たとの権威である。抽象的な論議や指向の身のこなしのために、スーツは考案された。

 

労働者階級の「上品な衣装をよしとする規範」の受け入れは、非日常の行動様式にしたがったことであり、彼らが上部構造を意識した、野暮で無骨で受動的な二流の存在へと運命づけたれた事を意味する。実際、それは文化的支配への服従である。(4455ページ 写真とスーツから再構成)

 

 

 

 

見るということ

 

私はこの写真に野獣のような肉体と、文化的服従を見いだせなかった。これからわかる事は100年前の写真と現代ではスーツの持つ意が違っている事である。我々にとってスーツは日常であり職業的支配階級のものとはもはや見なされていない。更に一つ上の概念で言えば少なくとも現在の日本においてはもはや「階級」を日常的に意識してはいない。更に最終的には見るという事は「持っている情報により知っているものを見る」という事に気づく。

 

 

蛇足

 

「見ることは確実な行為なのか?」(飯沢氏の解説より)