毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

「夏草や 兵どもが夢の後」は夢から何年後に詠まれたか?~松尾芭蕉の時空を超えるロールプレーイングゲーム

 本当はこんなに面白い「おくのほそ道」 (じっぴコンパクト新書)

安田氏は能楽師内田樹氏の帯に「芭蕉は現実の空間を踏破しながら、同時に物語の中も旅します。」

おくの細道

「おくの細道」は現代ではあまりに有名なので、芭蕉が生きていたときから人々に愛されていただろうと思われがちだが、そうではない。「おくの細道」が印刷物として刊行され、一般の人々の目に触れたのは、芭蕉の死後である。生前は、芭蕉と、その周辺の門人だけが読んでいた。むろん印刷されない。写本といって、手で書写した本を読んでいた。しかもただ読んでいたというのとはだいぶ違う読み方、すなわち読者も参加しながらの読み方をしていた。(11ページ)

ロールプレーイングゲーム

門人たちは、自分たちがまだ行ったことのない東北を、松尾芭蕉のトークとともに、旅をした。「おくの細道」では、芭蕉が実際の旅で迷ったように人々を迷宮に誘い込み、いく先々で詩人の魂や亡き人の霊と出会う。詩人の魂と交流をし、怨霊を鎮魂し、四季の景色を愛でて、名所を一見する。そしてゲームの参加者は芭蕉曽良の詠んだ発句をベースに連句をする。(12ページ)

安田氏は「おくの細道」を芭蕉によるロールプレーイングゲーム(RPG)、皆で集まってわいわいと楽しみながら行うテーブル(TRGP)だと説明する。なお「奥の細道」が出版されたのは1702年。

 

出発は元禄2年(1689)、源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目

治承4年(1180)、兄源頼朝の挙兵に呼応して伊豆黄瀬川の陣に参じてからの義経は破竹の勢いで平家を追討し、一躍英雄となります。しかし、頼朝との亀裂によって追われる身となった義経は文治3年(1187)、秀衡公をたより再び平泉に身を寄せます。同年10月に秀衡公が病死すると、四代泰衡公は、頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。しかし源頼朝を棟梁とする鎌倉の軍勢は奥州を攻め、文治5年(1189)、藤原氏は滅亡します。関山 中尊寺

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五月雨の 降りのこしてや 光堂

この句は芭蕉直筆本を見るとちょっと違って書かれている。「五月雨や 年々降りて五百たび」五百年間、この金色堂に降り続けてきた時空を超えた五月雨なのである。しとしとと降り続ける超時空の五月雨の彼方に、燦然と輝く光堂をいま芭蕉は眺めているのである。(192ページより再構成)

夏草や 兵どもが 夢の後

「夏草や」と詠んだ芭蕉の耳にも、義経藤原忠衡、そして弁慶、兼房、佐藤兄弟など義経に仕えた義臣たちの声が聞こえていたに違いない。夢だからこそ朽ち果てることなく、千載の命脈を保ちえる。「夢こそが真実」と義経の霊に詠いかける芭蕉。(200ページより再構成)

今から320年前の松尾芭蕉が今から820年前に連れて行く

320年前の松尾芭蕉は「月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。」と記した。松尾芭蕉RPGゲームマスターであり即興演劇の主催者、単なる紀行にとどまらず時空という人間の抽象的想像力の題材を提供した。松尾芭蕉の目指したものが良くわかる。そして松尾芭蕉が500年前の源義経をリアリティを持って感じていた。都合820年の月日である。

蛇足

今日も、320年前も、そして820年前も現在であり過去である。