毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

先生はえらい~曖昧なコミュニュケーション

 先生はえらい (ちくまプリマー新書)

内田氏は評論家、武術家。本書は以下の言葉で締めくくる。

私たちが「あなたはそうすることによって、私に何を伝えたいのか?」という問いを発することのできる相手がいる限り、私たちは学びに対して無限に開かれています。私たちの人間としての成熟と開花の可能性はそこにあり、そこにしかありません。(175ページ)

その事例として挙げるのが張良の話。

 能楽の曲「張良

中国・漢の時代、張良は秦の始皇帝暗殺に失敗して亡命、その亡命中に黄石公という「太公望の兵法」の秘伝を継承している老人に弟子入りをする。張良が街で馬に乗った黄石公と行きあうと、張良の前でぽろっと左の足の沓(くつ)を落とす。翌日また会うと今度は右足の沓を落とす。張良はその瞬間にすべてがわかって、「先生、わかりました! 武芸の奥義を会得しました!」と言う。

内田氏の論理展開

①一瞬で会得しという事は武芸の奥義は具体的な術技や知識ではない。

張良にとって黄石公は兵法伝授をしてくれる人という関係性が成立している。

張良は兵法伝授の為に沓を二度落としたと考え「謎」を解釈しようとした。

張良は「謎をかける人」に対し「謎を解釈する人」は絶対的な遅れに取り残されるので構造的に負けると理解した。

⑤黄石公の様に振る舞えば張良の様な人には絶対に勝てると気づいた。

先生はえらい

張良が黄石公に太公望の兵法を伝授されたというのは、「必勝の兵法」は「必敗の構造」に身を置いた者にのみ会得されるということを身を持って経験したからです。これはコミュニュケーションの水準の話で言い換えれば、理解とはメッセージの内容そのものを適切に読み解くことではなく、コミュニュケーションにおける「誤解の構造」に精通することである、ということです。(164ページ)

蛇足

私は、言語によらない曖昧なコミュニュケーションを取り合い「先生の存在」が重要であると解釈する。