毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

読書の目的は人生を変えること、である~『探検家の日々本本』角幡 唯介氏(2015)

 探検家の日々本本

山の中で死にそうな目に遭うくらいなら、本を読んでたほうがよっぽどマシである。ノンフィクション作家であり探検家による、読書エッセイ。(2015)

読書は人生の予定調和をぶち壊す

人生をつつがなく平凡に暮らしたいのなら、本など読まないほうがいい。しかし、本を呼んだほうが人生は格段に面白くなる。読書は読み手に取り返しのつかない衝撃を与えることがあり、その衝撃が生き方という船の舳先をわずかにずらし、人生に想定もしていなかった新しい展開と方向性をもたらすのだ。しかもその衝撃は意外と潜伏旗艦が長く、何年間も自覚症状がなかったのに、別の本を読んだ時にそれが引き金となってマラリアみたいにひょっこり顔を出し、読み手の人生の予定調和をぶち壊す毒薬のような破壊力があり、それこそが私が考える読書という営為の最大の美点なのだ。マラリアに感染しない人生より、マラリアに完成にている人生のほうが面白いに決まっているだろう。(9ページ)

キャンベル・モイヤーズの「神話の力」

彼(キャンベル)は多くの神話を比較し読み解くことにより、〈いま生きているという経験〉を求めるのが神話の裏に隠された主題であることを見つけ出した。古代インドの思想から映画「スター・ウォーズ」に至るまで、神話は人類が共通で編み出してきた、生き方の希求のしかたを説明する物語なのであ。・・・考えてみると、登山とか冒険とかといわれるような行為は、要するに自然の中で本当の生を体感するための活動に過ぎない。(115ページ)

エスキモーのシャーマンの言葉~神話の力より

『唯一の正しい知恵は人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなかに住んでおり、人は苦しみを通じてのみそこに到達することができる。貧困と苦しみだけが、他者には隠されているすべてのものを開いて、人の心に見せてくれるのだ』・・・そして自分ももう一度、「人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなか」に行きたいと願うようになった。(117ページ)

探検家の日々本本

探検とは「自分たちの世界の枠組みや常識の外側に飛び出してしまうこと」(127ページ)である、と説明する。探検する人間はそこで〈いま生きているという経験〉をすることになる。それでは世界の枠組みや常識の外とはどこであろうか?地理的な未開の知が一番わかり易いがもはやこの地球上に多くは残されていない。本書では地理的な未開の地以外にも様々な冒険が紹介されている。

それでは今、角幡氏は何の冒険を挑んでいるか?4カ月間冬の局地を歩くことで、「太陽すら昇らない、光すら失われた、すべてが完全な死の静けさにつつまれた、まさに人間の制御の外にある自然のなかで、ひたすらどこかに向けて歩き続け」ようとしている。〈いま生きているという実感〉を獲得するために、極地を目指す。

何のために本を読むのか?何のために冒険をするのか?本書は人生の探検のヒントが詰まっている。

蛇足

本を読む目的、人生を変えるため

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500年前の宗教改革は宗教の自由競争を生んでいた~『ロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで 』深井智郎氏(2017)

 プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで (中公新書)

 1517年に神聖ローマ帝国での修道士マルティン・ルターによる討論の呼びかけは、聖書の解釈を最重要視する思想潮流につながりプロテスタンティズムと呼ばれることになった。(2017) 

プロテスタンティズム

・・・イングランド宗教改革ではじまった国家や政治的支配者に依存しない自由な教会形成の試みは、国営教会が存在しているために、どうしても完全に自由な競争にはならないという壁にぶつかった。そこで(ピューリタンと呼ばれた)彼らはこの自由の獲得のために、また新しい本当のキリスト教的ヨーロッパを再建するために新大陸に向かったのであった。・・・・それゆねにアメリカではリベラリズムとしてのプロテスタンティズムが主流派になった。・・・そこで最終的に構築されたプロテスタントの特徴とは、国家や政治的支配者に依存しない教会の設立という新プロテスタンティズムの伝統にあった。(168ページ)

アメリカ合衆国憲法修正条項第1条(1791年)

合衆国議会は、国教を制定する法律もしくは自由な宗教活動を禁止する法律・・・を制定してはならない。

宗教も市場化し自由競争

国営教会がなければ、そこではまさに教会は一つの自発的結社として、一つの民間団体として、宗教市場で自由な競争が可能になる。(172ページ)

アメリカの宗教の市場は、この民営化と自由化の中で、伝道と呼ばれる競争を続けている。・・・(アメリカの)町のメインストリートにはいくつもの教会があって、人々はそれを自ら選んで一つの教会に行くのである。この市場の中で、自分にもっとよき宗教的指針を与え、魂のよりどころとなり、宗教心を満たし訓練してくれる礼拝と牧者を求めて、教会を選び、移動する。(178ページ)

プロテスタンティズムとアメリカ社会

カソリックでは)天国行きの唯一のエージェントであった教会の干し得にすがるようになっていた。・・・(その対抗勢力として生まれたプロテスタンティズムでは、特にそれは通俗化した場合、)この世で成功している者こそが天国に行ける者であり、それが、神が救いを予定したことの証明だという考え方である。・・・アメリカでは与えられた人生で成功した者こそが神の祝福を受けた者だといされたのだ。これがアメリカの自由な競争という市場の考えと結びついて、一代での成功物語こそがアメリカの美談になるし。それだけではない、この社会には国家教会や社会の正統などないのだから、市場で成功し、勝利した者こそが正義であり、真理であり、正統になる。これがアメリカ的なイデオロギーに宗教が与えた影響であろう。(182ページ)

プロテスタンティズム

ルターの宗教改革は1517年、500年前に始まった。本書によればルター自身はカソリックに対抗するプロテスタントを作ろうという意図最初からを持って始めたのではないが、世界を変える大きな潮流になったことは明らかである。そしてこの潮流は現在のアメリカを初めとする西欧世界に大きな影響を与えている。

アメリカは憲法で国教を定めない、と規定されている。それではアメリカ大統領は就任のときなぜ神に誓うのか?著者はこの神は“新プロテスタンティズムとしてのキリスト教に限りなく近いナショナリズム”であり、大統領はこれを司る大祭司であると説明する。

アメリカ経済の自由競争、民間優位、そして世俗的成功思考、これらアメリカの経済的価値観もまたプロテスタンティズムの影響を受けて確立したものであった。

今から500年前ルターの始めた宗教改革は宗教に自由競争を持ち込んで世界を大きく変えていた。

蛇足

アメリカでは宗教も自由競争

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正解のある"勉強"、正解のない"学び"の違い~『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』堀江貴文氏(2017)

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

義務教育の「常識」を捨てろ、「好きなこと」にとことんハマれ!(2017)

 

没頭するとは「学び」のこと

没頭する対象なんて、その気になればいくらでも見つかる。あなただってきっと、すでに出合っている。でも自分で自分にブレーキをかけているのだ、「こんなの、できっこない」と。(86ページ)

自分で行き先を決め、アクセルを踏む生き方のためには、「学び」が不可欠だ。・・・僕が言う「学び」とは没頭のことだ。脇目をふらずに没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと僕は思っている。(87ページ)

教科書とは先人の没頭の副産物

知の巨人としてあまりに有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ万有引力の法則を発見したニュートン。現代物理学の父アインシュタイン。彼らのような人々がそれぞれ自分の抱いた疑問の検証に寝食忘れるほど没頭し、そこでの発見を後世に残したからこそ、学問の体系は成熟した。彼らは「お勉強」していたのではない。ただ目の前のことにのめりこんでいただけだ。・・・彼らは心の赴くままに学び続け、道なき道を突き進んでいった、見習うべきイノベーターの先輩たちなのである。・・・学びとは、知の地平線を拡大する、つまりイノベーションを起こしていく過程そのものなのだ。それは当然、「自分の進むべきルートを自分で創り出す」こととも重なる。今僕たちが目にするう教科書も計算ドリルも、すべて誰かの没頭の副産物にすぎない。(92ページ)

何に没頭するか?

自分が求めているものは何か、やりたいことは何か。今この瞬間、どんな生き方ができたら幸せなのかを真剣に考え抜くのである。それがあなたが何に(没頭する時間という)資本を投じるかを決める原動力となる。(168ページ)

我慢するな

僕をふくめ、一般的な学校教育を受けた人たちは皆、「いざという時」のために学校に通わされ、役に立つのか立たないのかわからない勉強をさせられてきた。その間はもちろん、やりたいことを我慢し、やりたくないことも受け入れるしかなかった。・・・我慢が習慣化しているからだ。学校教育が創り出すのは、こうした無自覚の週間に他ならない。(7ページ)

 

すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論

堀江氏は皆我慢をすることに慣れきっっているという。与えられた課題をこなすことに慣れ、自分が没頭できる課題を探する術を忘れてしまっている。自分が没頭する術を探すには我慢せずまずはやってみること、である。

そもそも教科書に載っている内容は誰かが未知のなかから切り開いた「学び」の成果、である。しかしそれを勉強として強制されるとき、面白みは失われ「学び」の要素はなくなる。学校の勉強は普通「学び」にはならないのである。

それではどうすれば勉強ではなく「学び」をすることができるのか?我々がすべきは、何をすれば一番楽しいか、真剣に検討すること、である。一番楽しいことをしているとき、それが「学び」の時、である。

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何をしても自由、から逃げない

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シャープ経営危機の本質~『イノベーションはなぜ途絶えたか: 科学立国日本の危機』山口栄一氏(2016)

イノベーションはなぜ途絶えたか: 科学立国日本の危機 (ちくま新書1222)

山口氏はイノベーション理論・物性物理学の研究者、 かつて「科学立国」として世界を牽引した日本の科学とハイテク産業の凋落が著しい。(2016)

 

イノベーション型企業シャープ

1912年に早川徳次によって創業された老舗ベンチャー企業シャープは、売上高2兆円規模の大企業になった現在においてもベンチャーのDNAをまじめに受け継いできた会社である。

生み出された部品やそれに基づく製品はどれも驚きに満ちたものばかりで、量産太陽電池(59年)、トランジスタ電卓(64年)、液晶電卓(73年)、大型カラー液晶(88年)のような世界初の先端技術製品のみならず、両開きの冷蔵庫ドア「どっちもドア」(89年)や、開くとキーボードがせりあがる極薄ノートパソコン「メビウス・ムラマサ」(98年)、さらに今や当たり前になったカメラ付携帯電話(2000年)などは、グッとくる感動すら覚えた。(32ページ)

シャープ危機の本質~山登りのワナ

シャープの危機は、一見「液晶事業への過大な投資」にあったとみることができる。しかしその底流には、液晶への過度な選択と集中によって次世代に向かうべき研究・開発ができなくなるという組織のジレンマが存在していた。その現象は、1990年代後半に発生した。

研究開発本部の科学者・技術者ら「未知派」は、たとえディスプレイ技術部門ですら「ちがう未来」に向かうべき製品のビジョンを描くことも、それに向けて自分が明らかにしなければならない要素技術の研究も許されなくなった。ブラックボックス化という会社の方針がそれにさらなるタガをはめた。・・・こうして(液晶の生産に邁進するという)山に登り始めたら、その頂点に向かって迷いなくまっしぐらに登っていき、未知の山の存在など見向きもしない空気が組織全体を支配するようになってしまった。(55ページ)

シャープに学ぶ教訓

第一に、(今あるものを改善して山を登る)「演繹」ばかりに固執して「山から下りられなくなる」のを防ぐために、常に 「帰納」をし「本質」に向かって下りる修業をすることだ。・・・第二に、未来に至る価値の創造は・・・常に「ちがう未来」を構想し、分野や業界の「知の越境」を果たして「回遊」することである。(219ページ)

 

イノベーションはなぜ途絶えたか~科学立国日本の危機

山口氏はシャープの経営幹部研修を通じシャープの技術系幹部と10年にも渡る接点があったという。2000年代中頃から「液晶事業はいずれ終焉を迎えるから次の未来製品を考えなければならない」と経営幹部自身が気付いていたという。それではなぜ新製品開発ができなかったのか?液晶事業という山をめざして、ヒト・モノ・カネという生産要素を集中させた結果、他のもっと高い山=新分野・新技術が見えなくなって、新製品開発ができなくなってしまったと分析する。

シャープの経営機器は液晶への過剰投資ではない。経営危機の本質は液晶しか投資するものが見えなくなってしまったことにあった。知らず知らずのうちに低い山、登りやすい山に選択と集中をしたとき、大きなリスクが生まれる。

蛇足

新生シャープR&Dのビジョン、”世界の分業の中で日本人の頭脳と能力を生かして世界に貢献すする”(49ページ)

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『モナリザ』の背景はなぜ荒涼とした風景なのか?~『ダ・ヴィンチ絵画の謎』斎藤 泰弘氏(2017)

 カラー版 - ダ・ヴィンチ絵画の謎 (中公新書)

斎藤氏はイタリア文学、特にダ・ヴィンチの手稿の翻訳・研究で知られる。『モナリザ』の 左右の背景はなぜつながっていないのか、そもそもなぜこんなに荒涼とした風景なのか……。(2017)

どう繋がっているか、分かる?

モナリザは上半身で背景の中央部分を遮って、見る者に向かって微笑みながら「わたしの背後で風景がどう繋がっているのか、分かる?」と問いかけている。実際、彼女の右側と左側に展開する風景がチグハグで、両者が彼女の背後でどのように繋がっているものか、これまで誰も納得できるような説明をしたことがなかった。(137ページ)

絵の背景に込めた意味

向かって右側では、アルプスのような山岳地帯を水源地とする川が、きわめて自然に蛇行しながら流れ下ってきている。それに対して左側では、山々や水に浸食されて倒壊し、水はその行く手を塞がれて、湖となって広がり、次いで近い将来、その堤防を食い破って湖を崩壊させ、その下流域に襲いかかって、地表にあるものすべてを洗い流すはずである(144ページ)

なぜこのテーマを選んだのか?

・・・この世の終末をめぐる問いは、あらゆる時代のあらゆる人間の心を捉えてやまない人類の永遠の問いである。しかし、とりわけルネサンスのヨーロッパ社会においては、この問いはより切実なものであった。彼らの世界観の根底をなしていたキリスト教思想は、この世の終末をーその時期こそ不確かながらも、その確実な到来をー予言していたからである。・・・世界の終末は、現代人を脅かす核戦争の恐怖と同様に、当時の人々を脅かし続けた脅迫観念だったのである。(180ページ)

ダ・ヴィンチの考えていたこと

彼の化石の生成過程についての地質学的考察は、この手稿においても続けられ、それらはすべてかつての海底が現在の山岳にまで隆起したことを証言していた。ところが、彼の静学的考察は、永久的な大地の隆起を否定して、最後には大地が再び水没することをはっきりと予言していたのである。(122ページ)

 

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16世紀当時の模写(背景がはっきり分かる)

プラド美術館のモナリザの模写、最も初期の作品と判明 写真8枚 国際ニュース:AFPBB News

 

ダ・ヴィンチ絵画の謎

ダ・ヴィンチは20歳の時画家の工房の親方として独立した。彼は大学で学んだ学者ではなかった。イタリアのフィレンツェの山から出土する貝殻などの化石から大地の生成と消滅の理論に興味を持つ。ダ・ヴィンチは30歳頃当時の文化の中心地であったフィレンツェに移り、そこで宮廷お抱えの技術者として様々な活動に従事する。その間も常に大陸の生成の過程を研究し、ミラノ近郊の化石を収集分析し、自らの説を確立した。

ダ・ヴィンチは『モナリザ』だけでなく『受胎告知』、『聖アンナと聖母子と小羊』などの背景にも大地の生成と崩壊のモチーフを使っているという。

ダ・ヴィンチは絵画だけでなく、科学者・技術者として様々な活動をした。彼の活動は一つのテーマに貫かれていた。人類は大地が水没しては滅亡するとして、それまでの間どうやったら自分は人類の役に立てるのか?だからこそ絵画の主題はキリスト教であったとしてもその背景には自分の主張を描いていた。

ダ・ヴィンチから学ぶべきは、自らの頭で考え続けること、前例のない分野に挑戦すること、であろう。モナリザの背景はそのことを教えてくれる

蛇足

ダ・ヴィンチの主張はカトリック教会にとって受け入れられるものではなかった

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1970年大阪万博に学ぶ、”偉くない人”がビッグ・プロジェクトを成功させる方法~『歴史の使い方 』堺屋太一氏(2010)

歴史の使い方 (日経ビジネス人文庫 グリーン さ 3-6)

  堺屋氏は評論家、よく知られている歴史上の場面を引き合いに出して、歴史の「使い方」を語る。(単行2004、文庫2010)

偉くない人が企てる

日本は、地位が高くもなければ大金持ちでもない人、いわば「偉くない人」が大事業を企て実現することのできる国だ。東海道新幹線も、愛知用水も、日本万国博覧会も、プロ・サッカーのJリーグも、札幌ソーラン祭りや神戸ルミナリエも、成功したプロジェクトの大半は「偉くない人」が企画し実現したものである。

 日本には比較的地位の低い人々の意見を吸い上げる「ボトムアップ」の伝統がある。(124ページ)

ボトムアップ関ケ原に始まる

関ケ原の合戦に至る天下分け目の大戦争である。1598年旧暦8月18日、太閤・豊臣秀吉が死去し、権力中枢に虚団な空白ができた。それを狙ったのは秀吉に次ぐ実力者、徳川家康である。・・・そんな中で石田三成は、ほとんど独力で「徳川家康の天下簒奪を阻止しよう」という「大いなる企て」を試みた。ときに石田三成、数えで39歳、領土は19万5千石、地位は奉行。決して「偉い」といえるほどではなかった。・・・254万石の大領を持つ五大老筆頭になった実力副社長の徳川家康に、20万石にも満たない企画部長級の石田三成がどのようにして挑むのか、・・・石田三成はさまざまな策を練った。(131ページ)

プロジェクト・メーキングの方法

第一は「大義名分」を掲げることである。人は大儀では動かない。人を動かすのは、利害と恐怖である。それなのに人は、この世の中には「大義のある方に加担する者が多い」と考えるロマンだけは持っている。だから、大義のある側は過大評価されるのだ。非力な者が大敵を倒すには、まずは「大義」を掲げる必要がある。(138ページ)

プロジェクト・メーキングの手順は、まずコンセプト(概念)を決める。次に大義名分を掲げる、そしてプロジェクトのスポンサーを探し、最後には世間が成功を信じるような慎重にして格式ある人物を総大将に担ぎ上げる。その3つの条件を揃えることだ。石田三成は、労を厭わずこの手順を見事に踏んだ。自分のコンセプトに自信と誇りがあったからであろう。(141ページ)

日本万国博の仕掛

私は1963年、28歳のときに「日本万国博覧会を開催する」という志を立てた。そして、その手法を「関ケ原」に至る石田三成に倣うことにした。

まず、大義名分を立てた。万国博覧会は日本の経済成長と国際化に極めて有効な事業であり、開催地の地域開発にも役立つ。それにおそらく黒字を出して財政にも貢献するだろう。この大義名分は多くの共感を呼んだ。(159ページ)

 

歴史の使い方~歴史を「企てる」

1970年の大阪万博は高度成長期の日本を彩るイベントとして東京オリンピックと同様人々の記憶に残っている。東京オリンピックの参加者は200万人、万博は何と6400万人参加していた。多くの人の記憶に残るはずである。

堺屋氏は発案当時若干28歳、経済産業省の課長補佐、「偉くない人」であった。このビック・プロジェクトを進めるのに参考にしたのが石田三成、徳川との関ケ原の合戦というプロジェクトをプロデュースした。石田三成の大義は、成長路線の堅持であった。徳川の時代になれば今までの成長志向の政策から封建的な政策へとシフトする。それではいけないという大義を掲げた。大義を掲げればプロジェクトが動き出す訳ではなく、その後も石田三成は一つひとつステップを踏んでいった。

堺屋氏が万博のキーマンだったことは良く知られている。万博を進めるに当たって石田三成に倣ったというのは本書で始めて知った。万博が1970年、本書執筆が2004年、30年以上の時を経て明かされた秘密である。

蛇足

人は大義と損得で動く

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組織に人間は必要か?~『なぜ日本企業は勝てなくなったのか: 個を活かす「分化」の組織論』太田 肇氏(2017)

 なぜ日本企業は勝てなくなったのか: 個を活かす「分化」の組織論 (新潮選書)

かつて利点だった日本企業の「まとまる力」が、いま社員一人一人の能力を引き出すことの大きな妨げとなり、組織を不活性化させている。必要なのは、まず組織や集団から個人を「引き離すこと」なのだ。(2017)

分化とは?

「分化」とは、個人が組織や集団から制度的、物理的、あるいは認識的に分別されていることであり、「未分化」とは逆に個人が組織や集団のなかに溶け込み、埋没してしまっている状態を意味する。(5ページ)

なぜ日本企業か勝てなくなったのか?

IT革命とともに経済のソフト化やグローバル化も一気に進んだ1990年代の半ば以降、わが国の労働生産性や国際競争力は世界のなかでの順位が急落し、その状態が今でも続いている。

その人的要因の一つとして、ポスト工業社会に入って人間に求められる能力や資質、モチベーションの質が大きく変化したことがあげられる。工業社会で強みを発揮した日本人の黙々として働く勤勉さや一体感、そしてある種の帰属意識やチームワークが、ポスト工業社会では通用しにくくなっているのである。(70ページ)

日本企業の特徴~画一的な平等主義

一つの企業のなかでも研究開発、企画、広報、営業、マーケティングといった部署は階層が少ないほど自由に仕事ができ、身軽に動けるので組織をフラットにしたい。一方、慎重さを重んじる法務、契約、審査のような部署はフラット化しにくい。・・・全社一律、悪しき画一的平等へのこだわりがしばしばネックになっている。そして全職種を対象として企業別に組織される企業別労働組合が、それと深く関わっている。(91ページ)

分化と統合~大切なのは機能

わが国の共同体型組織では、行動と機能を一体化させるところに特徴があった。…モノづくりにしても、事務の仕事にしても従来の集団作業においては、そのように文字どおり一丸になることが大切だったからである。・・・行動と機能を切り離せば、個人の自由を尊重しながら仲間同士の協力や連帯ができるようになる。(163ページ)

そもそも組織に人=行動は不要

(近代組織論の祖と言われる)バーナードは、組織を「意図的に調整された人間の活動や諸力の体系」と定義しており、組織に人間そのものは含まれない。・・・組織にとって人間の行動そのものを規制する必要がないことを示唆したバーナードの慧眼は敬服に値する。(165ページ)

 

なぜ日本企業は勝てなくなったのか~個を活かす分化の組織論

本書の帯には、以下のチェック項目が並ぶ。

会議が多い、朝礼がある、課長が誕生日席にいる、情意考課されている、部の目標しかない、総合職・一般職がある、帰りづらい・休みづらい、裁量労働制がない、在宅勤務ができない

これらの特徴は日本の大企業が働く人々を共同体型組織として動かしてきた時にできた分化であろう。そこでは機能と同時に行動も一体化していた。日本が大量生産型工業化社会において、西側市場へのアクセスが可能であった時期に特化した形態であり、今の時代これらが不適合を起こしているのは言うまでもない。それではなぜこの日本型共同体型組織が解体されていかないのか?著者は日本型共同体型組織の既得権益者の声が大きいからだと指摘をする。今後の環境は行動と機能が分化した組織、組織と適切な距離感を保てる組織の方が成果を上げられる方向に変化する。組織の存在理由が目標に向かって成果を上げることであるならば、組織論を議論するとき「個を活かす分化」は重要なキーワードとなろう。

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組織に必要なのは意図的に行動する目的

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