毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

現代科学の特徴は何か?~『科学の発見』S・ワインバーグ氏(2016)

 科学の発見

 ワインバーグ氏は素粒子物理学の研究家、1979年ノーベル賞受賞。「美しくあれかし」というイデアから論理を打ち立てたギリシャの時代の哲学がいかに科学ではないか。(2016)

 

 

物理学の目標とは何か?

物理学の目標および標準はその間(過去百年単位で)実質的に変っていない。  1900年の物理学者が現代宇宙論素粒子物理学の標準モデルを知ったとしたら大いに驚くだろうが、「森羅万象を説明するために、数学的な公式と実験に裏付けられた客観的な法則を追い求める」という目標自体には何ら違和感を覚えないだろう。(11ページ)

ギリシャ哲学者達は詩人だった

ギリシャの思想家たちを理解するには、彼らを物理学者や科学者だと考えないほうがいいように思われる。哲学者とさえ思わないほうがいい。彼らはむしろ詩人と見なされるべき存在である。・・・「詩」とはつまり、自分が真実だと信じていることを明確に述べるためというよりは、美的効果のために選択された文体、という意味である。(32ページ)

ニュートンのプリンキピア

『これまで、天と海の現象を重力によって説明してきたが、その重力の原因についてはまだ述べていない。たしかに、この力は何らかの原因から生じている。この力は、その作用力を減じることなく太陽や惑星の中心にまで浸透し、・・・・距離の二乗に反比例して減じながら、遥か彼方へとあまねく広がっている。・・・・重力がこのような特性を持つ理由を、私はいまだに現象から推論できずにいるし、仮説を「こしらえる」こともしない。』(312ページ)

科学は目的を持たない

現代科学は、超自然的存在の介入あるいは(行動科学以外は)人間的価値の入り込む余地のない、無機質なものである。現代科学は、目的意識を持たない。確実性に対する希望も与えない。それなら、どうしてわれわれは現代科学に行き着いたのだろう。(325ページ)

世界はわれわれにとって、満足感を覚える瞬間という報酬を与えることで思考力の発達を促すティーチングマシーンのような働きをしているのである。数世紀かけて、われわれ人類は、どんな知識を得ることが可能か、そしてそれを得るにはどうすればいいかを知った。(326ページ)

 

科学の発見

ワインバーグ氏は科学を「世界について確かな事実を知るための実践的な方法」(13ページ)と定義する。16~17世紀のヨーロッパで人類は科学という手法を獲得した=科学の発見した、と言う。具体的にはニュートンに現代科学の始まりを見出す。ニュートンは重力によって惑星の動きとの潮の動きなど地球上の現象を統合的に説明した。現代的である理由は、重力の原因について説明しなかったことである。それが現代科学のスタイル確立につながる。科学者は究極的には森羅万象を説明できたときの知的満足によって突き動かされている。そこには神も妙な美意識も存在しない。

それではギリシャ哲学者から何を学ぶか?彼らは一つのロジックを作り、そこから自然を演繹的に理解しようとした。それはまるで教条的に視野を限定された行動のようにみえる。そこには現代の原理主義的な行動と同根の問題点があるようにみえる。

現代科学は観察、実験、実証、というサイクルを取る。そこには善悪ではなく、説明力の有無だけが求められる。目標にフォーカスし、目的意識に囚われないことが飛躍をもたらしている。

蛇足

観察、実験、実証は科学以外でも有効

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この世の法則、科学では因果律といい、仏教では縁起、という~『 真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』佐々木閑氏×大栗博司氏(2016)

 真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書)

佐々木氏は仏教哲学、大栗氏は素粒子論、の研究家。 心の働きを微細に観察し、人間の真理を追究した釈迦の仏教。  自然法則の発見を通して、宇宙の真理を追究した近代科学。 アプローチこそ違うが、この世の真理を求めて両者が到達したのは、 「人生の目的はあらかじめ与えられているものでなく、そもそも生きることに意味はない」という結論だった。(2016)

科学では因果律

近代科学は、自然界を一組の「法則」によって説明することを目指してきました。物理学者だけではありません。化学でも生物学でも、「現在」の状態が分かれば法則によって未来が原理的に予言できると考えます。もちろん、過去がどうだったかもわかるでしょう。それが科学の基礎にある因果律というものです。(大栗氏72ページ)

科学は人生の目的を与えることができるか?

宇宙そのものに意味はないので、その(科学の)研究を通じて得られるものにも究極的な意味はないのかもしれません。でも、その喜びの深さは、私にとっての幸福と呼んでいいように思います。(大栗氏187ページ)

仏教では縁起

仏教の言葉では、それ(科学でいう因果律)を「縁起」と言います。・・・縁起とは因果律のことです。

縁起とは自然界の法則ですから、釈迦が現れようが現れまいが関係なく、この世はそれに従って動きます。そこのたまたま現れた釈迦がその法則性に気づいて、私たちに教えてくれた。それが仏教という宗教の基本構造なのです。(佐々木氏80ページ)

仏教が与える人生の意味

私は(旧欲的には死の恐怖から)耐えて生きるのはしんどいから、自分で目的をつくる人生がいちばん幸福だと思います。・・・釈迦は、自分自身でいかに生きるかを決めて、いちばん好きな道を選んで邁進していたら、いつの間にか仏教という新しい世界的な文明を生み出していました。(佐々木氏186ページ)

科学と仏教の共通点

現実の本当のあり方とは、・・・長い時間をかけて人類が到達した、意識の機能を最大限に発揮して得られる世界観、すなわち科学的世界観も基づくこの世のあり方であって、それは釈迦が想定した世界と一致します。・・・より良い判断を下し、より良い状態を実現するための必須の条件は「正しく物事を理解する」という姿勢であり、それが、科学と、そして釈迦の仏教の共通項なのです・・・(佐々木氏190ページ)

真理の探究

我々は様々な偏見に囚われている。佐々木氏は最大のものは“「宇宙の真ん中に自分がいる」という思い込み”(16ページ)だと指摘をする。これらの偏見、思い込みを排除しない限り、より良い判断をすることはできない。科学が天動説から地動説へのシフトは今までの既成概念を削除しなければできなかった。科学では因果律仏教では縁起、言葉は違っても法則を理解し自ら真実に近づこうとすることを求める。科学と釈迦の考えた仏教、そのいずれもが「世界を正しく見る」ことにこだわるのである。

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仏教用語「空」と数字「0」は語源が同じだった~『 運が99%戦略は1% インド人の超発想法』山田真美氏(2016)

 運が99%戦略は1% インド人の超発想法 (講談社+α新書)

 山田氏はインド神話の研究家、30年に渡りインドと向き合ってきた。本書はインドと日本の比較文化論。(2016)

 

0はインド人の発見

よく知られているように、「0」の発見はインド人の偉業である。・・・数としての「0」が人類史上に初めて登場するのは、ブラクマグプタという名のインド人数学者が西暦628年に著した“Brahmaspasiddanta”という書物の中である。このときブラクマグプタは、「0」を「シューニャ」と名づけている。「シューニャ」はサンスクリット語で「空っぽ」という意味である。

この言葉を聞いて、少しでも仏教を学んだことのある人なら「おや、仏教にもこれと同じような言葉があるぞ」と思い出すのではないだろうか。仏教用語には「シュニャータ」という言葉があって、日本では一般的に「空」と訳されている。・・・「シューニャ」は形容詞、「シュニャータ」は名詞という違いがあるだけで、両者は同じ言葉なのだ。(157ページ)

0と空は同じ

インドから中東、中東からヨーロッパへと何百年もの時間をかけて旅をしているあいだに、「シューニャ」→「シフル」→「ゼフィラム」→「ゼロ」と名前こそ変わったとはいえ、私たちが現在ゼロと呼んでいる数は、もともとは仏教の「空」と同じ言葉を持っているのだ。・・・インド人の友人がこんなことをいっていた。砂の上に1個の石があるとする。その石を取り除くと、砂の上にわずかな窪みができる。窪んだ空間こそが「0」なのだと。仮にそうであるならば、「0」とは「何も存在しない」という意味ではなく、「無というものが存在する」ということなのだろうか。(159ページ)

運が99%戦略は1%

インド人が(日本人と)違っているのは、古くからの人生訓や身分制度を通じて、人は自分で生きていられるのではなく、カルマや目に見えないものの力で行かされているということを徹底的に教えられていること。

人生は、自由になる部分も時間も、ごく限られている。だからこそ、自分の出番が回ってきたら、本気で、全身全霊で戦え。だって次の出番は1億年後かもしれないじゃないか。(48ページ)

インド人の超発想法

山田氏は「36年にわたってインド人とつきあい、インドという国と常に真剣勝負で関わってきた」(9ページ)。

山田氏は日本でインド人は掛け算の天才、あるいは数学的センスがインド人を世界的経営者を育て上げたと言われる背景を掘り下げる。インドでの数学は仏教など哲学的要素を持っていると指摘する。「シューニャ」あるいは「シュニャータ」とは「空」「虚空」「開かれていること」「広い空間「」「無」「存在しないこと」などを意味する。0とは無というものが存在するということなのである。

山田氏は“砂の上の石“をどういう人から聞いたかは書いていない。数学の専門家というよりインドの一般的な知識人と考えていいであろう。0と空が同じ概念だということが一般の人から語られることに驚かされる。インド人の発想の秘訣は抽象概念を扱う能力にあるのかもしれない。

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空とは「 」(空欄)と1の上位概念

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人生という長旅を謳歌する方法~『いちばん危険なトイレといちばんの星空―世界9万5000km自転車ひとり旅』石田ゆうすけ氏(2010)

いちばん危険なトイレといちばんの星空―世界9万5000km自転車ひとり旅〈2〉 (幻冬舎文庫)

 7年半もぶっ通しで、自転車で世界を旅した著者。行かずに死ねるか、の続編(2010)

 

 

旅のマンネリ化

南米では旅は2年目を迎えた。1年というひとつの区切りを終え、さらにメキシコ・中米で第三世界のカルチャーショックをひととり経験してしまうと、それからの旅は自走から帆走に切り替わったように感じられた。“非日常”であるはずの旅の日々が“日常”になり、淡々と流れだしたのだ。

ぼくにとって世界一周は一気にやることに意味があった。・・・大陸や地域を区切ってまわるやり方もあるだろうが、それではぼくは納得がいかなかった。だから7年半も出っぱなしだったのだ。・・・旅が長くなればなるほど、言い方を変えれば、毎日変化だらけの日々が続けばつづくほど、感受性はすり減っていくように感じられる。(272ページ)

南米からヨーロッパへ

(南米でマンネリズムになって)早々に南米を切り上げてヨーロッパに飛んだ。世界が変れば、ふたたび好奇心が高まるかもしれないと考えたのだ。

はたしてその予感は的中するのだが、それもはじめのうちだけで、やがてヨーロッパの空気にも新鮮味を感じなくなっていった。考えたすえに、今度はロンドンでアパートを借りて働いてみた。つまり旅という“日常“から、定住、そして労働という”非日常“に入ることで、ふたたび旅の価値を高めようとしたのだ。どうやらそれはうまくいったようで、半年後にロンドンを発ってからは、旅が変った。・・・より味わいのある旅になったように思う。(275ページ)

長旅をするのなら

旅の質を重視するなら期間は長くてもせいぜい1年が限度じゃないだろうか。・・・新鮮な感受性にのみ価値をおくなら、旅は1年といわず、2,3か月で区切ったほうがいいかもしれない、。(273~275ページ)

7年半の経験から石田氏が伝えてくれたこと

大切なのは、景色も人もつねに変化するという行為ではなく、何一つ変わらない日常からでも、常に新しい変化を見つけ出す力ではないだろうか。(274ページ)

書くという作業を通して、もう一度世界一周をしている気分に浸れたのは痛快でした。前作とあわせて、ぼくは世界を三周したことになります。(309ページ)

 

いちばん危険なトイレといちばんの星空~自転車一人旅Ⅱ

石田氏は7年半自転車一人旅を続けた。旅の目的は自己満足なのだから、そこに見出す意義もまた自己満足に過ぎない。その石田氏も実は自転車一人旅1年目で実はマンネリズムに陥った時のことを告白する。1年も旅を続ければ非日常も日常になってしまう。日常では感受性がすり減り目的が薄れ、ただ単に移動しているだけに陥る。

石田氏は旅を日常にしつつも、そこから常に変化を感じ取る感受性を維持することに努力した。私は石田氏が旅のエッセイを日本に送っていた=読者とのつながりがあった、ことも感受性の維持、モチベーション維持に大きかったと思う。更にその記録が本書につながっている。

日常を終えることは死を迎えるまではできない。「日常から常に変化を見つけ出す力」という感受性を維持し続けられるか?人は自分の想いを誰かと共有しないと生きていけない。7年半の長旅を続けた石田氏は生を謳歌するヒントを与えてくれている。

蛇足

重要なこと、自分の想いを第三者に伝えること。

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石田氏が7年半の自転車一人旅を終えて帰国し、一番多かった質問が「どこがいちばんよかった?」だったそうである。本書は個人的な一番に関するエピソードを綴る。それらのエピソードも愉しいのだが、7年半という長旅の精神的な影響についての話に注目した。

 

 

いちばん危険なトイレといちばんの星空

 

人類はいつからコンクリートを使っているか?~『 コンクリートなんでも小事典』土木学会関西支部

 コンクリートなんでも小事典―固まるしくみから、強さの秘密まで (ブルーバックス)

 コンクリートは 維持管理をきちんとすれば、構造物を100年もたせることも可能。(2008)

コンクリートはなぜ固まるか

セメントの原料には、主に石灰石と粘土、そして少量のけい石と鉄さいが用いられます。セメントを製造するには、まず、石灰石と粘土を細かく粉砕したものをキルンと呼ばれる大きな窯の中で1450℃にも達する高温で焼きます。この作業を焼成といいます。・・・こうしてできがあったセメントは、水と接触することで非常に激しく化学反応を起こす性質を持っています。・・・反応の結果、新たに生成される物質をセメント水和物といいます。・・・セメント水和物は、コンクリートの中にある砂や砂利を糊のように結び付け、強固なひとつの塊にする性質を持っています。このような過程を経て、コンクリートが強固に固まるのです。(21ページ)

古代ローマのコンクリートはヴェスヴィオ山の火山灰

ナポリから電車で30分もどのところに、ヴェスヴィオと呼ばれる大きな火山があります。・・・ヴェスヴィオは噴火の際に、大量の軽石や火山灰を噴き上げるタイプの火山で、その周辺地域には、水はけのよい火山灰などが深く堆積しています。古代ローマのコンクリートにとって、重要なカギとなったのが、この火山灰(ポッツォラーナ)でした。・・・ローマ人は水1、石灰2、ポッツォラーナ4の割合で混ぜ合わせ、現代の私たちが用いるモルタルと同じような方法で使用していたのです。いつのころからか、ローマ人は、このようにして作られたモルタルの中に、砕石や砂利を混入して一体化させ、建物の構造材として使用するようになりました。これが今日のコンクリートの原形となったということです。コンクリートの製造技術を得たローマ人は、その後、次々と巨大建造物を構築していきます。(36ページ)

近代コンクリートはイギリスで誕生

ヨーロッパは18世紀の産業革命を迎えるわけですが、その歴史の流れの中で、イギリス人のジョン・スミートンという若者が、イングランド南部のエディストーン灯台の建設にあたり、古代ローマに使用されていたコンクリートの製造技術に目を付けました。(43ページ)

f:id:kocho-3:20170209074717p:plainコロッセオ - Wikipedia

コンクリートなんでも小事典

本書によればコンクリートは9000年前のイスラエル、5000年前の中国、2000年前の古代ローマでは既に使われていたという。現在のコンクリートの直接の祖先は、古代ローマ人の製造技術を2000年経って復活させた産業革命期のイギリスである。古代ローマのコンクリート技術は中世の時代に忘れ去られていたのである。

私は今まで古代ローマの建造物は石積みによって作られていたと考えていた。考えてみればあの巨大建造物が石積みで作ったのでは強度からして不可能であろう。コンクリートの製造技術を忘れたから巨大建造物を作らなかったのか、巨大建造物を作る必要が無かったからコンクリートの製造技術を忘れたのか、今となっては不明である。

コンクリートが教えてくれること、歴史は一直線に進んでいない。歴史も、そして技術も、行きつ、戻りつ、している。

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ネットの会話とは、居酒屋の会話の様なもの~「ウェブはバカと暇人のもの」中川淳一郎

 ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

中川氏はトニュースサイトの編集者、普及しすぎて、いまやバカの暇潰し道具だ。(2009) 

テレビの時代は本当に終わったのか?

少なくとも日本の場合、結局これが真実だ。

・最強メディアは地上波テレビ。彼らが最強である時代はしばらく続く

視聴率を見れば一目瞭然だ。2008年大晦日のゴールデンタイム、視聴率は合計75%を超えているのである。(120ページ)

テレビのすさまじい点は、世帯普及率が100%近い点と放送作家がきちんとついていて説得力がありそうな構成にしている点と、それを芸能人に言わせる点である。(135ページ)

ネットの世界

ネットでは、身近で突っ込みどころがあったり、どこかエロくて、バカみたいで、安っぽい企画こそ支持を得られるのだ。そして、掲示板やブログで「○○社のキャラがあまりにもゆるすぎるwwwww」「○○社のキャンペーンサイトがアホすぎる件」などと書かれたら、それこそ成功である。・・・ネットは暇つぶしの場であり、人々が自由に雑談をする場所なのである。放課後の教室や、居酒屋のような場所なのである。(191ページ)

真の情報革命は電話

なんだかんだ言っても、真の「情報革命」の担い手は、アレクサンダー・グラハム・ベルが誕生させた電話(1876年)である。ネットは情報革命の主役ではない。あくまでも電話を頂点とする情報革命第二段以後の担い手でしかない。「遠くの人としゃべれる」という電話の機能はあまりにも画期的である。・・・「伝える」「答える」「合意する」ことにかかるコストがあまりにも高かったのである。電話はこれを一気に解決したのだ。もはや代替機能はないと言ってもいい。

ネットは別のもので代替可能

ネットで可能なことは、だいたい別のもので代替できる。・・・ネットは便利である。こんな便利なものは本当に珍しい。だが、電話ほどの画期性はない。・・・人間が使っている以上、ネットはこれ以上進化しない。十分、我々は進化させた・・・電話やFAXにそれ以上のものを求めず、便利な道具として今でも重宝しているのと同様に、ネットにもそれくらいの期待値で接していこうよ。(237ページ)

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ウェブはバカと暇人のもの

中川氏はネットニュースサイトの編集者として日々ネット漬けで過ごしている。そこでは「バカと暇人」による中傷、クレイマーが溢れているという。それは本人が「バカと暇人」というより居酒屋や放課後の様に、バカと暇なことをやりたくなる環境である、と理解した方がいいのであろう。

本書によればテレビとインターネットのヘビーユーザーはぴったり重なるという。違いはテレビはその内容が検証・構成されていること、ネットでは玉石混交であること、である。本書は2009年出版だが、テレビ業界は更に凋落していると言っていいであろう。それはねネットが次世代の情報革命の担い手である、という“ネット万能論”より、ネットの肥大によりテレビの広告モデルの独占が崩れたことによる収益悪化と理解すべきとなる。

出版から8年が経過したからこそ、本書の主張は意味を持つ。

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すみません、どうしても仕事がうまくできません~『 不格好経営―チームDeNAの挑戦』南場 智子氏(2013)

 不格好経営―チームDeNAの挑戦

南場氏は1999年DeNAを設立、経営とは、こんなにも不格好なものなのか。だけどそのぶん、おもしろい。最高に。」――創業者が初めて明かす、奮闘の舞台裏。(2013)

 

 

 すみません、どうしても仕事がうまくできません

 

(最もお世話になったパートナー(共同経営者)に辞職の希望を伝えたところ)わかった、よくわかったからこのプロジェクトをやってから辞めろ、これは大事なプロジェクトだから力を貸してくれ、と言った。・・・これを最後に卒業しよう。せめて少しでも恩返しさせていただこう。・・・デキの悪い私が急にデキがよくなるわけなどない。ただもうできないことをさらけ出し、先輩やクライアントに助けてもらって仕事をした。マッキンゼーでは、「お前のバリュー(価値)は何だ、バリューを出せ」と念仏のように言われる。でも、もう辞めることが決まっている私は、自分のバリューなど気にならなかった。それまではバリューが出ていないことにもがき苦しみ、自分ができないことが悔しく、認めたくなく、どんどん肩に力が入っていったのだが、そのプロジェクトではそんなことをすっかり忘れ、仕事が前に進むことだけに集中した。・・・自分のダメっぷりが気になって硬く凝り固まったていた以前の私と本当に同じ人間かと思うくらい伸び伸びと活躍しはじめ、社会人になって初めて仕事が面白くなってきた。(64ページ)

コンサルタントから経営者へ

まず物事を提案する立場から決める立場への転換に苦労した。面食らうほどの大きなジャンプだったのだ。コンサルタントとして、A案にするべきです、と言うのは慣れているのに、Aにします、となると突然とんでもない勇気が必要になる。・・・プレッシャーのなかでの経営者の意思決定は別次元だった。「するべきです」と「します」がこんなに違うとは。・・・事業リーダーにとって、「正しい選択肢を選ぶ」こととは当然重要だが、それと同等以上に「選んだ選択肢を正しくする」ということが重要となる。決めるときも、実行するときも、リーダーに最も求められるのは胆力ではないだろうか。(205ページ)

優秀な人の共通点~素直だけど頑固

アクションに関するアドバイスをすると、必ず素直に、徹底的にやる。・・・(逆に)結論に関するアドバイスをしても心底納得するのに時間がかかる。・・・労を惜しまずにコトにあたる、他人の助言には、オープンに耳を傾ける、しかし人におもねらずに、自分の仕事に対するオーナーシップと思考の独立性を自然に持ち合わせている、ということではないかと思う。(217ページ)

不格好経営

南場氏はDeNAの創業者、マッキンゼーコンサルタント出身である。DeNAの今を見ると不格好経営どころか華やかな成功事例にしか見えない。南場氏はコンサルタント時代、成果を出せずに退社を覚悟していたこと、そしてその後の転機を書いている。成功とは無私、自分を勘定に入れないところ、にしか生まれない。私にはDeNAの成功の原点はこの時の原体験にあると感じる。南場氏が「人の力を信じて引き出せる会社にしていきたい」(65ページ)と言うからこそ、様々な人材が結集した。様々な人間が切磋琢磨してDeNAという組織を形成していった。南場氏は本書執筆にあたって「誰か他人の仕業と思いたいほど恥ずかしい失敗の経験こそ詳細に綴ることにした」(4ページ)。南場氏に感謝したい。

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